Shimizu Tatsuo Memorandum

きのうの話      
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2004.6.26
 先週頑張りすぎたというか、かなりきつい1週間をすごしたため、疲れすぎて最後の3、4日はほとんど眠れなかった。限界がきて倒れるように横たわっても、神経が休まっていないから眠れないのである。時間にして最大4時間横になっていたこともあるが、うつらうつらしているだけで眠れたという意識はまったくなかった。長編の最後の追い込みに入ったときは毎回こうなる。つまり眠りたいけど眠れない、疲れているけど休むことができない、という状態が最後までつづく。終わったときはそれこそげっそりしてしまうのだ。
 それがなんとか終わって今週は久しぶりにのんびりできた。しかし一方でその反動ともいえる頭痛に1週間悩まされつづけた。頭が重く、ちょっと動いてもぐらっとしてしまう感じで、寝ていても首の向きひとつ変えられない。じつは若いときからけっこう頭痛持ちで、頭痛薬が欠かせなかった時期もある。最近すっかり忘れていたその頭痛が5、6年ぶりに復活してきたことになる。かといってそもそもの原因は寝不足だから、こういうときは寝ているに限る。ということで今週はひたすら寝ていた。するとだいたい2、3日で治るはずなのに、今回はいっこうによくならないのである。
 じつはあした東京へ帰らなければならない。それでとうとう観念して、きょう、市販の頭痛薬を買ってきて飲んだ。そしたら1回飲んだだけで9割方治ってしまった。こんなことだったらもっと早く飲むべきだった、と例によって後悔しきり。白状するとおととい、以前の頭痛薬が残っていたからそいつを飲んでみたのだ。そしたら全然効かなかった。古くなって効力がなくなっていたようなのである。
 きょう買ってきて飲んだのもまったく同じ薬だ。それで思い出すのは、前のときもたしか同じだったということ。つまり前回も1回飲んだら劇的に効いて、それっきり用がなくなっていた。ということは、最近は頭痛がしてくるほど根を詰めて仕事をしていない、という証明になるのかもしれないが、要するにその薬は、事実上一回しか使われることがないということなのだ。そのたった1回分が1000円。何日もつづいた頭痛が治ってくれるなら安いものだといえるし、あと2、3日寝てれば治るかもしれないものに1000円出すのは高いともいえる。要するにそのもったいなさが、ここまで頭痛を長引かせたいちばんの原因になっていたわけだ。ほんとに貧乏人というのはしようがないものである。今回の薬も、これでまた当分飲まれることなく、つぎの頭痛のときまで取って置かれることになるのだろう。

2004.6.20
 世のなかは広い。前々回だったか、電話もない宿に泊まって苦労した話を書いたが、いまどきシーツもない部屋に泊まる羽目になろうとは思いもしなかった。
 自炊棟のある温泉で宿泊したのは今回がはじめてだ。素泊まり1泊2800円。とにかく安い。これで湧きたての温泉に入り放題である。部屋は8畳。座卓つき。座布団2枚。ごみ入れつき。しかしあったのはこれだけ。浴衣、タオル、お湯、歯ブラシ、いわゆる旅館につきものの客用セットがなんにもついていない。布団も自分で敷かなければならないし、しかも帰るときは上げて帰れと注意書きしてある。シーツもないのである。
 飲み食いするものは持っているし、寝巻きがないくらい平気だが、シーツまで持参しなければならないとは知らなかった。それに建物が古く、ドアの開けたてから廊下を歩く足音までいちいち響いて、けっこううるさいのだ。また自炊棟というものは、湯治に来ているお年寄りが中心だろうと思っていたところ、これが大違い。むろんそういう客もいないではなかったが、大半は山菜取りにきているオヤジたちだった。これが廊下いっぱい籠をひろげて取ってきたタケノコの下処理をしたり、流しを占領して皮をむいたりしているのだが、それが傍若無人、面構えといい態度といい、山のヒグマよりはるかに獰猛そうな生きものだった。自然の恵みを分けていただいている、みたいな殊勝さはかけらもないのである。
 山菜ブームが年々過熱して、多くの弊害が出ていることはなにも北海道だけのことではないが、毎日やってくる人間を見ても半端な数ではなかった。毎日何百人も山へ入って行くのが窓から丸見えなのである。やってくるほうはその日だけだろうが、見ているほうには毎日同じところへ入って行くのがわかる。よくこれで取りつくされないものだと、自然の豊かさに感心する反面、この調子ではまじにそのうち取り尽くされてしまうのではないかと本気で心配になってきた。事実毎年、奥へ奥へと入って行かないと取れなくなっているみたいで、ことしは道内でもう10数人の死者が出ている。道に迷って動けなくなり、夜の間に凍死する人が絶えないのである。
 かわいそうなのは山のものを食料にしている動物だ。とくにヒグマは人間と食いものがもろにバッティングするため、いちばん被害を受けていると思う。熊の聖域といわれているところもいまやお構いなし、数を頼んで強引に入り込んでくるから、熊にしてみたら安住の地がないどころか、人間という猛獣に出会わないよう、あのからだを小さくして逃げ回っているのではないか。かつて彼らの重要な食いものであったクリ、サワガニは絶滅し、いまではタケノコ、ヤマブドウ、アケビ、クルミといったものまで、取りつくされかけている。道の駅に行くと、これら山からの強奪物がまるで自分の畑で育てた野菜みたいな顔をして並んでいるのだ。
 もう山菜は食わない。絶対に食わないぞ、と固く誓って帰ってきたのだった。
 で、部屋のほうは、さすがに辛かったから翌日新館に変えてもらった。こちらは素泊まりで5500円。だがトイレ、浴衣、丹前、歯ブラシ、バスタオル、浴用タオル、ティッシュペーパーはもちろん、電気ポット、テレビ、電話までついている。料金が倍になるとはいえ、この快適さはやはり替えられなかった。
 ということで今回は思わぬ経験をしたが、仕事は予定通りはかどってきょうめでたく脱稿した。
 これから新しい段階に入ります。

2004.6.13
 夏が来た。気がついたらYOSAKOIソーランの季節になっていて、しかもきょうはもう最終日だった。この1週間ほとんど外出もせずデスクにかじりついていたから、今年はとうとう本物を見ずじまい。テレビでさわりのところを見ただけだった。
 週の中日に罪滅ぼしがてら、かみさんを連れて川下公園というところへ、ライラックの花を見に行ったのが唯一の外出だ。そういう公園があることも知らなかったが、その日の朝、テレビでライラックの花が見ごろだと紹介されたのだとか。なんでも世界各国から集めた250種類ものライラックが咲き誇っているというから、それなら見てくるベエと腰を上げたのだった。
 たしかにさまざまなライラックの花が咲きそろっていた。しかし250種類もあるとはとうてい思えなかった。わたしに言わせたらあれは2種類、つまり紫と白の花しかなかった。そりゃ詳細に見れば微妙に色がちがうし、花のつけ方から花弁まで、それぞれちがっている。しかし基本的にはあくまでも紫色の花と白い花、それだけである。黄色いライラックや真っ赤なライラックでもあれば、そりゃもっと感心してやってもよかったが、しょせん芸のない花だとしか言ってやれそうもない。葉っぱだけ見るとブルーベリーやラズベリーに似ているのだ。ところが実はつけないんだよね。だいたいわたしは、実をつけない花には興味がないのだ。そして実をつけたら、食える実か、食えない実か、で評価は決定的に左右される。
 街路ではいまニセアカシアが花盛り。この花が散りはじめると、ザーッという感じで降り注いできて、風情はないがその潔さはなかなか捨てがたい。
 仕事が最後の追い込みに入ったので、月曜日からまた温泉に籠もってきます。遊んでばかりいるみたいで、こんなことをいちいち書くのは気が引けるのだが、ほかになんにもしていないから書くことがないのである。今回のお籠もりは4日間の予定。これでおそらくこの仕事は終わるだろう。
 前にも書いたが、旅館で仕事をするときいちばん困るのは食事。旅館のめしはとても毎日食えないからだ。それで前回は思い切って最初の一日だけ食事をつけてもらい、あとの4日は素泊まりにしてもらった。そしたらこれが思いのほか気に入ってしまった。
 どのみちうまいものを食おうと思って行ってやしない。静かな環境と、気分転換の温泉に入ることさえできれば、それで十分なのだ。なまじ朝めしが出ると、その時間に起きなくてはならないから、つらいことのほうが多い。素泊まりにするとそういう制約がなくなり、好きなように時間を使うことができて、ものすごく快適だった。食いものは日持ちのするライ麦パンを持って行ってそれをかじり、1日に1回外出して、めしを食って、コンビニで買いものをしてくる。おかげで費用もべらぼうに安くついた。
 さあ、そうなると、今回は前回よりもっと安く上げようと、妙な張り切り方をしはじめる。そもそも素泊まりのできる宿というのは限られているから、安く上げようと思えば宿のグレードは落ちるばかり。もちろん部屋にはトイレも冷蔵庫もなし、おそらく電話だってないだろう。トイレも簡易水洗ぐらいまではがまんしよう。今回行くところは素泊まりで1泊3800円なのである。さあ、どういう結果になりますか。

2004.6.6
 家ではだんだん仕事ができなくなって、今回も温泉の力を借りてきた。要するに日常性から自分を孤立させなければならない、ということである。するとあきらめて仕事もするし、能率も上がるということなのだ。都合のいい理屈だとは思うが、肉体が無条件に反応してしまうのだからしかたがない。ということで、これからも大目に見てもらうほかないだろうと、昨日帰ってきたばかりなのにもうつぎはいつ、どこへ行こうか、といったことを考えはじめている。今回の5泊6日の行程では、仕事が全部終わらなかったからだ。
 どこの温泉へ行くかということは、本やインターネットで調べている。はじめのころは仕事をするための快適性を第一に選んでいたが、最近はそれよりも温泉の内容をより重視するようになった。温泉になじめばなじむほど湯の質にうるさくなり、循環はだめ、塩素混入は論外と、いわゆる正しい温泉でないと我慢できなくなってきたのだ。
 ただそうなると当然大規模施設は基準に合わなくなることが多い。辺鄙なところにある一軒宿みたいなところ、近代的な旅館にしたくても資金がないから何十年も前のまま、というところになりがちだ。今回選んだ宿もそういうところだった。そうしたら思わぬかたちで足元をすくわれてしまった。
 温泉は文句なしによかったし、宿も空いていた。初日の宿泊客はわたしひとり、2日目はほかにひとり、3日目がまたひとり。静かだし、仕事をする上ではこの上ない環境だったのだが、部屋に電話がなかったのである。いまどき電話がない、それも部屋はもちろんロビーにもない宿があるなんて思いもしなかった。「部屋に電話なし」などという情報はどんな詳細な温泉ガイドブックにも出ていないのである。
 電話ばかりか、テレビも100円玉を入れないと写らない代物だった。テレビは見る必要がなかったからべつに困らなかったが、電話をかけられないのはやはり不便だ。回線がないからメール1本出せない。2日間は我慢したもののそれでは用が足りなくなり、3日目には車に乗って電話をかけにいかざるを得なかった。ただ電話をかけるために、山の中から車を15分も走らせて下界へ下りるのである。
 それでじつは思わぬ発見をした。北海道でも田舎では、公衆電話ボックスがどうやら全滅してしまったことだ。5年前に北海道へきたとき、いたるところに公衆電話ボックスが健在だったので、さすが北海道だなあと感心したことだった。面積がひろすぎて携帯電話の通話圏から外れるところも多いので、住民の便を考えてわざわざ残してくれているのだ、とばかり善意に解釈したのだ。なんのことはない。撤去が後回しになっていただけのことだった。札幌市内のボックスはまだ健在だが、田舎に行くとゼロ、今回あっちこっち走り回ったが、とうとうひとつも見つけることができなかった。
 たしかあそこの公園にあった、と思ってそこへ向かっていると、道路の案内板がでてきて、それにはちゃんと公衆電話の絵が描いてあるのだ。ところが行ってみると影も形もないのである。かと思うとやっと電話ボックスを見つけ、やれうれしやとばかり近寄ってみると、中味のないただのガラス箱になっていた、ということを何回か繰り返した。
 とにかく電話なしでは困るから、4日目から宿を変えた。今回は川のそば。せせらぎのすぐ脇に露天風呂がある絶好のロケーションだ。もちろんがらがら。約束の3時に着いたがだれも出てこないから、先に勝手に風呂へ入った。結局ほかの客は来なかったから、すべての風呂を独り占めだった。ところがなんということか、ここも電話がなかったのである。もちろんロビーにもない。しかたがないからまた車に乗って電話探しの外出だ。さいわいコンビニに行けばまだかけられることがわかったが、それでも最寄りのコンビにまで10分かかるのである。
 はじめに泊まった宿では、食堂に電話ボックスがあったのだ。ところが故障の紙が張られたままで、使えない。宿の話によると、NTTが直しにきてくれないのだ、ということだったが、この分だと嘘とも思えなかった。儲からない部分はどんどん切り捨てられているのである。携帯を持たなきゃ暮らすこともできない日々が、ここまで来ていようとは思いもしなかった。
 しかしそうなったらなったで、意地でも携帯なんか持ってやるものか。

2004.5.30
 北海道の期待の星だった道産子コスモバルクがダービーで惨敗した。実況中継を見ていたが、あれはあきらかに騎乗ミスだろう。コスモバルクも本馬場へ出てきたときから異常にいれこみ、万全の状態にあったとは思えなかった。これらいくつかのマイナス要因が重なり、持てる力を出しきれないまま敗れたのが今回の敗戦だと思う。それにしても解せないのは、なぜもっと早く東京へ送らなかったかということ。コスモバルクが東京へ向けて北海道を旅立ったのは木曜日、まる24時間かけて現地へ着いたのは出走前々日の金曜日だったのである。地方の馬には参加条件がきびしすぎるんじゃないか、と邪推のひとつもしたくなるのだ。
 じつをいうと昨今は競馬になんの興味も持たなくなっていた。だから皐月賞に敗れるまで、コスモバルクが道営競馬の所属馬であることすら知らなかった。なんであんなに騒ぐんだろう、くらいに思っていた。わかってびっくり、コスモバルクはローカルもローカル、ほとんどの人が知らない門別競馬の所属馬だったのである。
 北海道には道営競馬場が10箇所あるが、門別競馬場は1997年に設立された日本でいちばん新しい競馬場だ。競馬場というより競走馬の訓練施設にスタンドをくっつけ、競馬場としても使うことができるようにしただけという感じ。町からは遠いし、周辺に大きな都市はないし、おそらく観客が1000人と集まることはなさそうな超鄙びた競馬場なのである。
 子馬の段階で億という値段で取引きされる良血のサラブレッドとちがい、コスモバルクはわずか400万円でなんとか拾ってもらった駄馬だった。その馬が鍛えられるごとに強くなり、中央に打って出るやエリート馬を蹴散らし、3連勝したんだから大騒ぎされて当然だ。駄馬なればこそ人間のほうが、社会的駄馬でしかない自分のイメージを重ね合わせて無条件に応援してくれるのである。むろんわたしもそのひとり。北海道に庇を借りている身としては、だからこそきょうはなんとしても勝たせてやりたかった。
 それでかつてのハイセイコーを思い出した。ハイセイコーも大井競馬で6連勝して中央競馬入りし、弥生賞、皐月賞、ダービートライアルのNHK杯と快勝して、10戦10勝の成績でダービーに臨んだ馬だ。あのときは社会的現象といっていい大ブームになり、ハイセイコーは単勝で3分の2の票を集めるという圧倒的支持を受けた。しかしレースではやはり勝てなかった。しかし1頭の馬が国民的アイドルになったという点で、歴史に残る名馬だったことはまちがいない。その後ハイセイコーは種牡馬となって北海道で余生を送っていたが、ついこのまえの2000年5月、30歳で大往生を遂げた。いまでは銅像となって産地である新冠町の道の駅だったか、役場だったかの庭先でその勇姿を見ることができる。
 わたしが競馬離れをするようになったきっかけが、じつはこのハイセイコーにほかならなかった。あまりのばか騒ぎにすっかり嫌気がさしてしまったのだ。それまでは毎週競馬新聞を買い、テレビ中継は必ず見ていたのに、社会的熱狂が過熱するにつれもちまえのひねくれ根性が頭を持ち上げ、もういいやという気になってしまった。不思議なもので、するとまるで憑き物が落ちたみたいになにも感じなくなった。のちにオグリキャップが同様の大ブームを巻き起こしたときは、もう実況中継すら見ない人間になっていた。
 今回もコスモバルクがよその地方出身馬だったら、それほど肩入れしなかったと思う。コンサドーレと日本ハムが期待したほどの成績でなく、北海道の地盤沈下にやきもきしていた人間にとって、コスモバルクの出現はそれに代わる新しいヒーローの登場となったのだ。このうえはなんとしても北海道に快哉を叫ばせる馬となり、これまでの鬱憤を晴らしてやってもらいたい、と遅ればせながら熱烈なファンとなる宣言をしておく。おりがあったらもう一回門別競馬場にも行ってこようと思っている。一度そばを通ったことがあるのだが、あまりになんにもないところにできた施設なので、なんでこんな税金の無駄遣いをするんだ、とそのときは腹しか立てなかったのだった。
 とにかくコスモバルクには夏を無事にすごしてもらい、秋の菊花賞に向けて捲土重来を期してもらいたい。中央競馬に対しても、競馬の底辺をひろげるためには、地方の馬にさらにチャンスを与えてやれと強く要望しておこう。
 とはいうものの、仕事が滞ってそれどころではないのが実情。来週は新聞連載原稿をまとめるため1週間山籠りしてきます。

2004.5.23
 不幸があって郷里に2日間帰っていた。台風が接近中とあって、この間ずっと雨に降られっぱなし。風がなかったのをまだしもさいわいとしなければならない天気だった。お通夜と葬儀に出席して翌日とんぼ返り。ほかのところへは顔を出す余裕もなく、今回は電話ひとつせず不義理をさせてもらった。
 それにしても航空運賃の高いこと。以前は札幌高知間に直通便もあったのだが、それがなくなってからは東京か大阪で乗り換えなければならない。その乗り継ぎ割引が一切ないのである。ふたつの路線の正規料金をまるまる払うと、片道5万円を越えるのだ。パックツアーのべらぼうに安い料金設定が可能なくらいなら、航空運賃をもっと下げるべきだろう。だいたい乗務員が多すぎる。お茶やジュースのサービスなどいらない時代になっているのではないか。単なる輸送機関に徹し、そのあり方を根底から見直す時期にきていると思う。
 感覚としては久しぶりの帰郷のつもりだった。ところが調べてみると母の7回忌をすませたのが一昨年、たった2年しかたっていなかった。しかしこの間にも母のきょうだい、つまり叔父や叔母がめっきり年取ってしまい、それを見るのがなんだか痛々しかった。老いた者の身に流れる時間と若い者のそれとでは、重みがまるでちがうのだ。残念ながらこの先ますます、いいことがあって郷里へ帰る機会はなくなるだろう。できるだけ都合をつけて帰ってこようと思っている。多くの思い出をくれた人たちへの、それが唯一のお礼だからである。
 帰る日の朝、タクシーを飛ばして県立美術館へ駆けつけた。いまピカソ展をやっていて、田舎の美術館にしては朝の10時から駐車場が満杯になるという大賑わいだった。ただしわたしの目的はピカソではない。館内の売店で売っていたマグカップが欲しかったのである。
 母が亡くなったときだから9年前になるが、葬祭場の近くを歩いていたらできたばかりの県立美術館に行き当たった。わたしがいたころは影も形もなかった施設である。ずいぶん立派な入れ物ができているが、こんな貧乏県に展示するものがあるのかしらんと思いながらなかに入ってみると、なぜかシャガールのリトグラフのコレクションがあってびっくりさせられた。
 そのとき売店で見つけたマグカップが気に入って買って帰った。スペイン製で2種類、料金は1500円、白地にピカソとミロの絵が焼きつけてある。なかでも赤と緑と黒の色を使ったミロのカップがすばらしく、以後これでないとコーヒーや紅茶が飲めないというくらい気に入ってしまった。旅先で仕事をするときも必ず持って行くのである。
 しかし長年使い込んできたため、上のふちに引いてあった銀線が消えはじめた。頑固な茶しぶもこびりついてしまい、いまでは少々洗ったくらいでは取れなくなった。それで機会があったら新しいものに買い換えたいと思っていたのだ。ほかでは売っているのを見たことがないのである。
 ところがそのカップをもう売っていなかった。売店の女性も入れ替わってしまい、ミロのカップがあったことすら知らない始末。最近のものらしいピカソのカップを売っていたが、カップの質が悪くてとても買う気になれなかった。こんなことになるんだったらあのときもう2、3個買っておくんだった、と悔しくてならない。こうなったらいまのカップと心中するしかなさそうだ。今度漂白剤を買ってきてきれいに磨いてみようと思っている。

2004.5.13
 昨日札幌へ帰ってきた。先月25日より東京にいたから、ほぼ20日ぶりの帰宅ということになる。自営業者だからなにもゴールデンウイークに休む必要はないのだが、世間さまに合せてついこちらまでお休みをいただいた気分になり、この時期はいつも遊んでしまう。あとでひーこら言わなければならないのは毎度のことである。
 今回は東京から札幌まで車を転がして帰ってきた。走行距離1228キロ。新幹線でいえば東京から福岡の先までの距離に当たる。もちろん一日で走り抜くのはむり、2泊3日の旅になった。
 いまの時期の東北は、旅行をするのにいちばんいい季節である。というのも、北上するにつれ季節がどんどん若くなってくるからだ。関東ではすっかり深緑になっている野や山が北へ行くにつれ若緑になり、黄緑になり、萌黄色になり、最後は北海道のピンク色の勝った早春の色に変わって、季節の移り変わりをいながらにして見届けられる。東京近辺ではとっくに終わってしまったサクラにしても、まだ咲き残っているところもあればただいま満開というところもある。稲田だと苗が伸びて青々とそよいでいるところから、田植えが終わったばかりのところ、田に水を張りはじめたところ、まだそこまで達していないところと、じつに千差万別なのだ。あいにくはじめの一日は雨に降り込められたが、雨にけぶっている水田風景ほど美しいものはないとつくずく思った。
 連休明けの平日だったせいもあってか、奥入瀬渓流にこれほど人が少なかったのははじめてだった。観光バスを5、6台見かけたかどうかという程度。それにこのところ観光の仕方が変わってきて、いまでは歩いている人がずいぶん多くなった。ツアーそのものにも歩くコースが組まれているみたいで、ガイドに先導されて遊歩道を行く団体客を何組か見かけた。いっそのこと車を一切通行禁止にしてしまい、乗り降り自由の電気自動車でも走らせて、1日のんびり散策を楽しめるようにならないものかと、ここへ来るたびに思う。
 八甲田の雪がすばらしかった。標高1000メートルくらいまで上がると、ブナ林はまだ1メートル以上深い雪のただ中にある。朝日が昇ると地表をうっすらと霧が流れはじめるのだ。この静謐感とすがすがしさはやはり八甲田ならではのものだろう。その雪が北海道のニセコまで来るとダケカンバ林の雪と変わる。こちらはまだ早春のはじまりで新芽はぜろ、白骨林を思わせる荒々しい雪景色となる。冬季の閉鎖が解けてやっと通行可能になった山越えの道を通ったが、途中の駐車場や遊歩道はすべてまだ厚い雪に埋もれていた。
 とにかくこの時期の北紀行は、縦に長い日本列島の季節感が満喫できて堪能する。一方で移動の速度があまりにも速すぎ、人間の感受性がそれについていけないことも痛感した。どういう風景を見たところで「わー、きれい」で終わってしまいかねないのである。自分のいま見ている風景が、この時期、この地域の、瞬間を切り取ったものであるという認識すらできなくなってしまう。文筆で生計を立てている人間にとって、これはかなり由々しき問題ではないかと思うのだ。車で移動しているみたいなスピーディな小説を書く人ならいくらでもいる。しかし歩いている人間の目で物事を見つめる小説もあっていい。わたしの場合はあきらかに後者の立場だろう。だとしたら、車の旅にあまり浮かれてはいられないことになる。
 という反省もふくめ、きょうから仕事を再開した。

2004.5.6
 ことしもゴールデンウイークを東京ですごした。札幌で暮らすようになってから恒例になってしまったもので、もとはといえば東京に置いてある車を取りに来たのがはじまりだった。その機会を利用して東京近辺に散らばっている子どもが顔を見せるようになり、いつの間にか春の行事になってしまったものだ。正月はばらばらで、ほかには顔を合わせる機会がないのである。
 ことしは4日に全員が集まった。昨年孫がひとり増えたため総勢11名。とはいえみんなそろったのは晩めしのときくらいだったが、それでもこのときばかりはけっこうにぎやかだった。
 ほんの30年まえまでは、これとそっくり同じことを郷里の母のところで繰り返していたのだ。わたしを筆頭に5人の子ども、その連れ合い、孫が11人、全員がそろうと20人を越える大人数になってなかなかの壮観だった。もっとむかし、祖母が健在だったころの記憶も鮮明に残っているが、あのころはさらに大人数だった。長女の母以下子どもが5人、孫がわたしのほか15人、いつもはひっそりしていた田舎の家がこのときばかりは割れんばかりの騒ぎになったものだ。
 かれこれ二十年近くまえになるが、叔父が亡くなってその葬儀に出席したとき、それまで会ったこともなければ、話に聞いたこともない親族が一堂に会しているのを見て目をまるくしたことがある。みながみな、まぎれもなくわが一族だと思わせる顔つきをしていたからだ。それははじめて経験する奇妙な感覚だったが、一方でなんとなくほっとするような、なつかしさみたいなものもおぼえた。考えてみるとわたしは、日本的な家族制度の最後の黄金期に立ち合っていたのである。そういう風土のなかで育ち、ものの見方から考え方までを培ってきたことになる。
 しかしこういう感慨もわたしで終わり。つぎの世代には伝えることができない。小家族化が家庭というものをすっかり変えてしまった。それによって失ったものは少なくないはずだが、もとからない状況で育った者たちにしてみたら、それほど深刻なことではないのかもしれない。彼らは彼らで、またあたらしい家族関係を築いてくれるだろうと信じたいのである。
 それにしてもなんという人生の短さよ。
 自分がおじいちゃんと呼ばれる身になったことがいまだに信じられない。年を取ってしまったことそのものが納得できないのである。

2004.4.25
 電子辞書を買った。これで2度目である。携帯できる辞書があればいいな、とずっと思っていたから、以前電子辞書なるものが出てきたときは真っ先に買った。ところがこれが使いものにならなかった。表示の出るのがなんとも遅いのだ。使うたびにいらいらして、数回で投げ出してしまった。ずいぶん高い買い物についたわけで、以来どんな辞書が出てこようが、ふん、もうだまされないぞ、と見向きもしなかった。ところがいまの電子辞書はちがいますという。
「ぼくはもう紙の辞書なんか使ったことがありません」
 とある作家が言ったからびっくりした。それですぐ買いに行った。おどろいたことに100はあろうかという電子辞書がずらりと並んでいた。そしていまや収録冊数を競う時代。40冊入り、50冊入りといったことを麗々しく謳っている。とてもその場で選びきれず、その日はカタログだけ集めて帰った。
 そして検討してみたのだが、あきれたことにこれほどたくさんありながらろくなものがない。やれスピーチの事典、冠婚葬祭の事典、手紙文の書き方、医者からもらった薬がわかる本、家庭の医学事典、とどうでもいいものばっかり。かと思うとオックスフォードの英英辞書から中国語、イタリア語まで、普通の人にはおよそ必要なさそうなものまでラインアップされている。一方であったらさぞ重宝するだろうと思うレベルの高い歴史事典とか、人名辞典とかいったものはない。
 欲をいえば何百もある辞書の中から、自分の欲しいものを選択できるシステムだとありがたい。だがしょせん商売、こういうものは万人向けでないと売れないから、作家が待ち望むような電子辞書は、この先100年待ったところで出てくるわけがないのである。
 結局消去法で、数種類の国語辞典と古語辞典、いまの段階では最上と思われる歴史事典が入っているものを選ぶことにした。これ、じつは高校生向け、というより受験生用として開発された製品だ。ところが店頭に行き、実物を手にとってびっくり。なんともかわいらしい、女子高生のコンパクトみたいな外観なのだ。色も真っ白。せめて色違いはないかといったのだが、ないという。いくらなんでもこれでは恥ずかしい。ということで結局あきらめることにした。
 買うことは買ったのだ。それがじつはもっとも軽蔑していた50冊入り、現在の段階ではいちばん収録冊数が多く、いちばんお得という代物だった。どれだけ許せるかということと、画面が大きくて見やすいものを、ということで選んでいったらこうなってしまったのである。
 しかしそれさえ目をつぶれば、まことに重宝かつ便利、電子辞書というものを完全に見直した。簡単な疑問や調べものならその場で用が足りるからありがたい。先週仕事場をよそへ移したときもむろん持って行った。いまではパソコンのお供として欠かせない道具になってしまった。こんなことだったらもっと早く買うんだった、と遅まきながら後悔している。
 ついでにもうひとつ白状すると、いまNHKの趣味悠々という番組で携帯電話の使い方をやっている。さる週刊誌が、いまや常識でしかないこんなものを、わざわざNHKで取りあげる意義があるのか、とこき下ろしていたが、大いにあるんだよねえ。かくいうわたしなど毎週楽しみに見ているのだ。
 携帯電話は持っていないし、持つつもりもない。だがメールはもちろん、カメラからインターネットまで、なんでもこなせるようになった携帯電話という道具には、ひそかに恐怖しはじめていた。携帯電話なんか持たねえよ、などとうそぶいている間に、ますます世の中から取り残されてしまうんじゃないかと心配だったのだ。かといって、いまさら人に聞くのも恥ずかしい。という人間にとってはまことにありがたい番組だったのである。
 ただし8回もかけてやるほどのものでないことはたしか。中味が薄いから30分の時間はすごくかったるい。おまけにテキストが1050円。テレビ講座のテキストでこの値段はないんじゃないの。とこれには少々腹を立てている。

2004.4.19
 4日間留守にしていた。外へ一歩も出ず、1日15時間パソコンを叩きつづけて、きのう、へろへろになって帰ってきた。どうやら1回3日間ぐらいにしたほうがいちばん効率はいいようだ。4日目になるとがっくり疲れ、能率が上がらなくなる。持久力がなくなる。気分転換ができなくなって、眠れなくなってしまう。皮肉なことに帰りのバスのなかでは眠りこけていた。
 帰ってみると、豊平川のネコヤナギがいっせいに芽吹きはじめていた。創成川のヤナギも若芽を出しはじめた。藻岩山はまだ全面の雪だが、平地では99パーセント雪が消えた。豊平川の河川敷にあとわずかに残っているだけである。
 いよいよ春だ。これから1日1日めまぐるしい勢いで新緑が増えはじめる。春に立ち会うとしたら北国に勝るものはない。人間が生かされている動物であることを、謙虚に認識できるからである。この春をあと何回めでられるか。春になると毎年そう思いはじめた。

2004.4.14
 ふた月ほど前から急に声がかすれはじめた。思い当たることはまったくない。大声を出したり、風邪を引いたり、体調をくずして痰がからまったりしたおぼえもない。健康を維持しているのに、なぜだか声だけがかすれてきたのだ。かみさんが気味悪がって診てもらいなさいよという。そういわれるとこっちもあんまりいい気持ちはしない。ガンにかかった知人が周辺に何人かいるのだ。それで仕方なく重い腰を上げて病院に行った。
 鼻カメラがあるなんて知らなかった。胃カメラよりよほど楽ですよ、とそいつを鼻の穴に突っ込まれた。あとで撮影した写真を見せてもらった。いまのところ異常は認められないという。99パーセントはガンでないと思いますが、それでも見落としということがないわけじゃないから、もうすこし経過を見ましょうとのこと。その日もはっきり声はかすれていたのである。
 そのあといろいろ話していて、最近体調で変わったことはないかというから、花粉症をはじめ思いつくことを全部並べてみた。食生活の変化についても触れ、この半年で体重を4キロ以上落としたと言ったところ「ひょっとすると、それかもしれません」という。体調の急激な変化が声帯に影響を与えることはあるのだそうだ。
 それでこのまえ、東京に帰っていたときのことを思い出した。作家たちと話していたとき、節食して体重を4キロ落とした話をしたところ、ある作家が、体重はあんまり急に落とさないほうがいいですよといいはじめた。
「じつはぼくも以前ダイエットして急に体重を減らしたところ、歯にカビが生えてきたのでびっくりしてやめたことがあります」
 そのときは半信半疑だったが、この声のかすれ具合からすると、あり得ないことではなさそうだ。なにごともすぎたるは及ばざるがごとしということか。
 それで気をゆるめたわけではないが、以来すこし食う量を増やした。そしたらたちまち体重が500グラム増えた。声のかすれはまだ治っていない。

2004.4.5
 プロ野球の日本ハムが札幌へ来るというから心配していた。というのも北海道は99パーセントまでが巨人ファン。あとはなんにもないというところで、それで野球ファンなどとよくいえるな、とわたしなどいつも憤慨していた。昨年、西武ダイエーの首位決戦が札幌ドームであり、そのときは斎藤、松坂の両エースが投げ合ってじつに見ごたえがあった。ところがそういう試合でさえがらがらだったのである。新聞では観客2万5000と報道されていたが、そんなに入っているものか。どう見たって1万そこそこしか入っていなかった。以来わたしは北海道の野球ファンというと軽蔑することにしていた。
 そういう土地柄へ、数ある球団の中でももっとも地味な日ハムが乗り込んでくる。よしたほうがいいんじゃないかと内心はらはらしていた。ところが昨年からの動向を見ていると、球団側の努力もあるが意外に市民の反応がいいのだ。自分たちの街にプロ球団ができる、というのがやはりうれしかったのだろう。さらに新庄が入団したことも大きかった。にわかに日ハムブームが起こり、オープン戦の段階からぞくぞくと観客が集まりはじめた。北海道を元気づけるためにも、パ・リーグのためにもまことに喜ばしい、というのでわたしもにわか日ハムファンとなることにした。白状するとこれまで日ハムのゲームは一度も見たことがないのである。ちなみにサッカーも札幌コンサドーレを応援している。残念ながら金のないチームなのでいい選手を集めることができず、昨年から2部に低迷しているが、札幌にいる間は応援するつもりだ。
 そこに日ハムである。なんと名前まで「北海道日本ハム・ファイターズ」と変えてしまった。これでは応援してやらざるを得ないではないか。というのできのう、オープニングゲームとなった対西武ライオンズの最終戦に行ってきた。観客はまあまあ集まっていた。外野席には立派な応援団ができ、売店では日ハムグッズがけっこう売れていた。札幌市民をすこしは見直した。もっとも観客が3万5000と発表されていたのは怪しい。明らかに1万人はかさ上げされている。それでも勝ちさえすれば文句なかったのだ。それがごぞんじの通り初戦を勝っただけであとは連敗、目下のところダントツのどん尻というていたらくである。
 なにしろろくな投手がいない。出てくる投手出てくる投手、ストライクが入らないのだからどうしようもない。カウント2ストライク3ボールばっかり。当然時間がかかり、1回の攻防だけで30分を費やした。わたしなどもうそれだけでうんざり。ひとりだったら途中で見限って帰っていた。緊迫感のある試合ではない。だらだら時間がかかっただけなのだ。それで3時間半。6人のピッチャーが出てきて、1回を3人で抑えたのはたった2インニングしかないという情けなさ。2日間で22点取られたのだからあとは言うべきことばもない。
 北海道の人間は新しいものに飛びつく半面長つづきしない。新規開店で連日長蛇の列という店が半年たったら閑古鳥ということは珍しくない。こういう試合をしていたら、せっかく盛り上がった熱も一気に冷めてしまうんじゃないかと前より心配になってきた。ファンの心をつかむためにも、ここは勝つしかないのである。しっかりせよと日本ハムには言いたい。
 しかしあの投手力じゃあなぁ。

2004.4.1
 昨夜は雪が降り、今朝は一面の銀世界になった。しかしやはり春の雪、昼にはほぼ消えてしまった。そうなるとなんだか惜しいような気がするから妙なものだ。月曜日、3週間ぶりに千歳へ帰ってきたとき、適度に寒くて「おお、やっぱり北海道だな」とほっとしたくらいだ。3月の東京は春になったり冬にもどったりなんともめまぐるしかった。しかし最後は汗ばむほどの陽気になって一足飛びの初夏になった。だいたい春が短すぎるのである。日本は亜熱帯気候で春がない、と主張する気象学者もいるそうだが、北海道にいると「そうだ、そうだ」と相槌を打ちたくなる。歩みは遅いが着実でまぎれのない北海道の春のほうが、はるかに春らしいと思うのだ。
 帰ってきた日、札幌では積雪ゼロ宣言が出された。どこを基準に判定しているのか知らないのだが、前日まで積雪4センチだったそうだから、この数日で急速に暖かくなったようだ。それで見回してみると、道路脇や吹き溜まりをのぞいておおかたの雪が消えていた。豊平川の河川敷の雪も残り少ない。とはいえまだしばらくは雪が降ったり寒風が吹いたりする日が繰り返す。北海道の4月は1年のうちでもっとも地味で、見栄えのしない季節なのである。街もうす汚くて埃っぽく、まことに冴えない。
 これは雪が降り積もるたび歩行者が転ばないよう歩道にバラストを撒いたからだ。これが春先はそのまま残っている。一冬に撒かれるバラストの量はいったいどれくらいになるか、おそらく何百トンという単位ではないかと思う。これに冬の間雪が閉じ込めてきたさまざまのゴミがまじる。そこらじゅう土や砂や埃でざらざら。ときには「おい、おい、ここは未舗装道路か」といいたくなるところだってある。
 この砂をどうやって取り除いているのだろうとかねてから思っていた。それをきょう、わが家のすぐ隣のブロックで目撃した。なんと箒でいちいち掃き集めていたのだ。10人を越える作業員がチームになって、掃き集める人、ネコ車でトラックに運ぶ人、作業をしながらつぎの場所へと移動していた。まさかこんな素朴な人海戦術で除去しているとは思いもしなかった。すると札幌市内でこの作業にいま何人くらい従事しているのだろうか。雪捨てといいバラスト除去といい、そのために莫大な費用が投じられていることを考えると、北の街はつらいなあと思う。金ならほかに使いたいことがいくらでもあるはずだからである。

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