きのうの話 |
|
|
2004.3.28 あした札幌へ帰る。今回は20日いたことになるが、その割に中途半端で、不満の多い滞在に終わってしまった。車検に出した車がなかなか戻って来なかったからだ。はじめから遅れるとわかっていたら、その間どこかへこもって仕事することもできたのに、きょうは上がってくるか、きょうは電話がかかってくるかで、なんとも落ちつかない1週間を過ごしてしまった。 ことしうれしかったのは杉花粉症が軽くすんでいること。そういえば街でもマスクをかけている人が少ない。わたしも外出したとき目がかゆくなるくらいで、当初はほかの症状がまったく出なかった。ところがそのうちだんだんぶり返してきて、いまでは例年と変わらない状態になりかけている。北海道で忘れていたのを躰が律儀に思い出してきた感じなのである。 きょうもめしを食いに外へ出たときのこと。帰りの電車のなかで、あ、やばい、と思ってあわててティッシュを取り出そうとしたのだが、そのときはもう間に合わずハナミズがたらたらっと垂れ落ちていた。見られたざまではない。ふだんは雨戸もガラス戸も閉め切って家のなかにとじこもっているのだ。しかし出入りするたびに花粉を家のなかに運び込んでいたみたいで、この数日は外より家のなかのほうが悪くなっている。 できたら車が上がってきた土曜日に帰ってしまいたかった。それができなかったのは、ゴミがあるからだ。先日生ゴミを出し、あした不燃ごみを出して、それでやっと家を空けられるというわけである。 帰って来たときはハクモクレンが咲きはじめていた。それが散って、いまではさくらが咲きそろっている。そしてけさは裏庭の水仙が、いまにも咲きそうに黄色いつぼみをふくらませていた。早春の花であるはずの水仙がわが家ではさくらより遅いのだ。もとからそうだったわけではない。水仙は夏に球根を取り出し、秋に植え直してやらなければならない植物なのだが、それをしないでほったらかしにしてあるから水仙のほうがだんだん横着になってしまい、咲くのがこんなに遅くなってしまったというわけ。そのうち初夏の花になるかもしれない。 |
|
2004.3.26 毎日新聞の連載があと1回で終わる。 その間際の先週、毎日新聞社とわたしとを結びつけてくれていた記者のYさんが亡くなった。十数年におよぶつき合いだった。数年前から現役を退いていたとはいえ、今回の連載も、サンデー毎日に「あした蜉蝣の旅」を連載したときも、Yさんにすすめられてはじめたものだ。ほかにもグラフ誌アミューズに連載した「道草ばかりしてきた」というエッセイ集もある。 わたしばかりではない。毎日新聞社から刊行されている小説のほとんどはこの人が手がけていた。現在の日本を代表する作家が網羅されていた。その流れの余波としてわたしのところへも来てくれたのだが、じつをいうとわたしは新聞社というものがあんまり好きではなかった。というより新聞社に、これほど熱心な文芸記者がいるとは思っていなかったのだ。それで実際に書きはじめるまでかなり時間がたってしまったのだが、最後は根負けして、新聞社だからどうせそのうち移動するだろうと思ってとりあえずうん、といってしまったのが本音だった。 そしたら「いや、ぼくは文芸以外には行かないんです」というからがっかり、という笑い話があって縁ができた。読み巧者で、勉強家で、自分が担当する作家の作品はすべて、注目している作家の最新作にも必ず目を通していて、わたしなどいつもYさんから情報をもらっていた。いったいいつそんなに本を読む時間があるか、むしろ不思議でならなかった。というのもパーティで顔を合わせると最後までわれわれにつき合ってくれ、朝まで酒場に残っている編集者のひとりだったからだ。朝会社へ帰り、仮眠室ですこし横になってまた仕事にもどる日々だったと思うのである。 そのせいにちがいない。しばらくまえから体調をくずし、一時は入院もしていた。2年ぐらい前からは酒席でも以前ほど飲まなくなった。かと思うとつい昨年まで「いや、けっこう飲んでたよ」という声もあって、そのときの体調次第だったのかもしれない。しかしそういう声を聞くと、こちらもつい、だったらそれほど悪いんじゃないのかな、と都合のいいように考えてしまうのだ。 札幌に来てからも月に1回は電話で元気な声を聞かせてくれていた。それが昨年の後半から途絶えた。気にはなったのだが、例によってずぼらなあまり、こちらから電話をかけることはしなかった。昨年12月、東京へ帰ったおりだれかに消息を尋ねたものの、詳しいことはわからずじまい。ときどきは顔を見かけている、というからほっとしていたのだ。 それがいきなりの訃報である。 なぜ一度くらいこちらから電話をしなかったか、いつものことながら悔やんでも悔やみきれない。最後に会ったのがいつ、どんなときだったか、全然おぼえていないのだ。もちろんどのようなことばを交わしたかという記憶は断片すら残っていない。このような別れ方をすべき人ではなかったのだ。この先もそれがずっと負い目になってしまいそうな気がしてならない。 通夜と告別式には北海道や大阪からも作家が駆けつけてきて、Yさんが元気なときこの顔ぶれで一堂に会していたらと思わざるを得なかった。そういう席でのYさんの笑顔が目に浮かぶのである。通夜が終わったあと、われわれのテーブルへ夫人が挨拶にこられた。そして故人はみなさんのお蔭で充実した人生を送ることができましたとお礼をいわれた。そのときはじめて、余命2年を宣告されていた躰だったことを知らされた。みなさんのお蔭で8年生き、9年目に入ったところだったというのだ。 「ハードボイルドな生き方をしてくれたと思います」 そして最後に夫人に言い残したことば。 「これはみなさまには申しあげません。でもすばらしいことばを残してくれて心から感動しました。ですから亡くなったときは涙もこぼれませんでした」 お通夜に出てこれほど感動したことはなかった。Yさんはわたしなどよりはるかに高い境地を生きていたのだ。 告別式の日は冷たい雨が降った。多摩に帰って来たときはみぞれになっていた。 今週は仕事ができなかった。 |
|
2004.3.18 庭のハクモクレンが満開になった。例年だと空が真っ白になるくらい咲くのだが、小さな庭にしては木が大きくなりすぎてしまい、落葉が隣近所まで飛んで迷惑をかけるから昨年大々的に剪定してもらった。おかげでことしは全部咲いてたった10輪ほど。猫のひたい程度の庭にはこれくらいがむしろ似つかわしいかもしれない。 帰ってきて一週間たった。暖かすぎてサクラまで咲きはじめている。しかし札幌でも、最高気温が10度を超える予報がはじめて出た。それも一足飛びに12度。夜、ほんとうに暖かかったか、と電話で聞いてみたところ「全然」という返事が返ってきた。風が吹いたからけっこう寒く、体感温度では10度にとても満たない感じだった。夜になって13度まで上がったというニュースを見たときは、嘘! と思ったそうだ。本州の10度と、まだ一面雪野原のところの10度とでは、同じ気温でも暖かさがまったくちがうのである。 確定申告をすませたり車を車検に出したりけっこう忙しい毎日を送っている。この間付き合いといえば、友人と久しぶりに集まってめしを食ったことくらい。古いやつとは40年になる付き合いの男ばかり6人。当然といえば当然だが、どいつもこいつもみんなじじいになっていた。いちばん若いやつで58だったのだ。 「いつの間にみんなこんなじじいになっちゃったんだろうね」 とその席でもまた同じようなことを言ってきた。 そのあと3日ほど某所にこもって仕事をしてきた。インターネットができるというから安心して出かけたのだが、それは要するにLANだとかカードだとかが使えるという話であって、わたしのようになんにもしてないやつは相変わらずのゼロ発信でやりなさいということだった。 ところがその肝心のマニュアルを忘れてしまったのである。しようがないから見よう見まね悪戦苦闘してみたが、どうしてもつながらない。下手をしたら徹夜になりそうだったからその段階であきらめたが、おかげで今回は仕事をする気力まで削がれてしまい、はなはだ不本意な結果に終わってしまった。 これではいかんと深く反省し、帰ってきてもう一回マニュアルをよく読み、この際どこへ行っても困らないようゼロ発信用の設定をしておこうと思った。それでよくよく調べてみたところ、なんととっくにその設定がしてあった。いくつか登録してあったアクセスポイントのひとつがゼロ発信用だったわけで、自分でやっておきながらきれいさっぱり忘れていたのである。 じじいになるということは、こういうボロが、あとからあとから際限もなく出てくるということです。 |
|
2004.3.9 雑用がたまったので昨夜遅く東京へ帰ってきた。このまえ帰ってきたのが12月、したがって4ヶ月ぶりの帰京ということになる。予想していたとはいえ暖かいのにおどろいた。このところ札幌では冬型の気候がつづき、真冬日が1週間つづいた。それで帰ってくるとき、何を着たらいいか大いに迷った。北海道ならダウンのコートでいいのだが、いくらなんでも東京では大げさすぎる。結局千歳まで我慢すればいいのだからと、シャツに薄手のジャンパー一枚という格好で出てきた。そしたらホームで列車を待っていた4、5分の間に震えあがってしまった。マイナス3、4度まで下がっていたんじゃないだろうか。 機内で羽田の気温が8度といわれたときはほっとした。事実羽田におりたとき、最初に感じたのが暖かいなあということだった。空気がまるっきりちがう。ただし多摩のわが家は冷え凍っていて、室内の気温がたった6度しかなかった。エアコンとガスヒーターをフル稼働させたけど、室温が18度まであがるのに2時間かかった。べつに広すぎるわけじゃない。温めても温めても熱が逃げてしまうのだ。6年まえに改築したとき、もっと防寒対策を考えておくべきだった。だがこれはなにもわが家だけということじゃない。周囲の家だって似たり寄ったりだ。冬の内地へ旅行した北海道の人間は、家のなかが寒いのと内地人の我慢強いのにみなびっくりするのである。 いまの時期、帰ってくるときいちばん気になるのが花粉症だ。ことしは花粉の飛散が少ないというからほっとしているのだが、それでも昨夜家へ帰り着いたときはもう目がかゆくなっていた。それでなかへ入ったが最後雨戸一枚開けようとせず、昼でも明かりをともして家のなかに閉じこもっている。ところがあいにく食いものがない。それできょうの午後、まとめて買い出しに行ってきた。出かけるまえに鼻炎の炎症を抑える市販薬を飲んで行ったところ、それが効いたのか3時間ほどの外出と、帰ってきてからもまだこれといった症状は出ていない。やれ、ありがたや。あすも出かけなきゃならないから、しばらくこの薬を飲んでみよう。 東京もこのところ寒かったそうだが、きょうは一転暖かかった。多摩でも日中の気温が17度まであがり、太陽熱で熱せられた車に乗ったときはしばらくクーラーを入れなければならなかった。氷点下から夏へ一足飛び。いくらなんでもこの格差は大きすぎる。 北海道とはちがう地上の景観があらためて新鮮だった。梅が咲いていた。竹の葉がそよいでいた。どちらも北海道ではほとんど見かけない植物である。北海道には竹がない。梅はあるがほかの花に先駆けて咲くことはない。桜や桃と一緒に咲く。だからまるで見栄えがしない。北海道で梅があまり植えられないのは多分そのせいだろう。あれはいち早く咲から値打ちがある花なのだ。 |
|
2004.3.4 気がついたらもう3月。こないだ新年を迎えたばかりなのに、あっという間にふた月たってしまった。年をとるにつれ、時間のたつのが早いこと早いこと。大変だ、大変だ、もう3月になってしまった、とこれではあせりたくもなってくる。 ということでその後も平凡といえば平凡、ただただ仕事に明け暮れた毎日をすごしている。で、その仕事をどこでしていたのか、ということになるのだが、するとやっぱり家ではできないから、とまたまた苦しい言い訳をすると、例によってもっとも仕事をしやすい状況に自分を追い込んでというか、そういうところまで自分の身を運んで行って働いてきた。この2週間に2回、合せて5日出かけていたといえば、報告するほうだってちょっと恥ずかしいのだが、遊びに行ったんじゃないからね、仕事をしていたんだ。とここは声を大にして言っておこう。 だって1泊2食つきで4800円も出せば、3種類ものお湯がこんこんと湧いて、湯船からざーざーこぼれている温泉に24時間入り放題入れるんだよ。多少見栄もあるから今回はもうひとつ上のランクにしたが、それでも6500円。これで仕事がはかどってくれるなら安いもの、とは思いませんか。冬のオフシーズンで平日、という条件はつくものの、オンシーズンの夏だと1万円以上はするところがこの値段で泊まれるのだ。むろん客もいまは気の毒なくらい少ない。今回も1日4組以上客がいたことはなかった。当然風呂は貸し切り状態。ああ贅沢だ、贅沢だ、と入るたびに感激してきた。 もちろん高級ホテルではないから、なにもかも満足というわけにはいかない。今回はどちらの場合も部屋にトイレはついていたが、先週泊まった宿には冷蔵庫がなかった。今週泊まった部屋には冷蔵庫こそあったが、あきれたことに部屋にソケットがひとつしかなかった。たったひとつのソケットからコンセントにコンセントを継ぎ足し、電話機、テレビ、暖房機、冷蔵庫、すべての電源を取っているのだ。完全なたこ足配線である。そのうえにわたしのパソコンが加わるわけだし、お茶を沸かすときの電源もいる。コーヒーを飲むときはテレビを消さなければならない、という経験ははじめてだった。 で、来週。それはそれでまた計画があるのだが、それはまた日を改めまして。 |
|
2004.2.22 お天気がおかしい。気温が上がったり下がったり変動がはげしくて、季節感が狂ってしまいそうになる。あおりをくらって天気予報が外れること外れること。このところまともに当たっていないのだ。北海道の天気予報がむずかしいのはよくわかる。これが冬の関東だったら「あすは晴れるでしょう」といっておけば八十パーセントは当たるのだが、北海道だと隣町まで行けばもう天気も気温もがらっとちがうのがふつうだ。だがそれにしてもきのうきょうの外れ方はひどかった。いったいどういう仕組みで予報が出されているのか知らないが、予報の精度もさることながら運用の仕方に融通が利かなさすぎるように思うのだ。 たとえばきのう。全国的に暖かかったみたいで、札幌の最高気温も7度と予報されていた。4月の気温である。果たせるかな朝から雨になった。いかにも春先みたいな細かい霧雨が、しかも一日中降りつづいた。深いもやが立ち込めて視界はろくに利かず、見るからに肌寒そうだ。経験からいってもこういう日の気温は上がらない。11時でまだ零度だったのだ。しかし昼の天気予報では若干修正されたもののそれでも5度となっていた。 「え? きょうはどう見ても5度にはなりそうもないが」 とテレビを見ながら首をひねったものだ。結果はやはり5度どころか、2度そこそこにしかならなかった。 つづいて東京の最高気温が21度を越したきょう。札幌も予報では5度と報じられていた。ところが起きてみると雪だ。それもかなりはげしく、午前中で10センチくらい降り積もった。しかもいっこうやむ気配がない。そんな天気になれば、きょうも気温は上がらないなとわれわれ素人でさえ午後の見通しはつく。それなのに昼の天気予報ときたら最高気温4度、低気圧が発達しているから午後から風雨が強くなりますという。雨どころか、終始雪でしかも風はまったくなかった。おいおい、窓の外を見てみろ、と突っ込みを入れたくなるような天気予報ではないか。 テレビの天気予報を担当しているのは気象予報士だと思うのだが、彼らには自分の意見というものがないのだろうか。個人的な意見を言ってはいけないことになっているのかもしれないが「予報では5度になっていますが、そんなには上がらないと思います」くらいのことは言ってもいいと思うのだ。上から下りてきた予報を読み上げるだけなら予報士なんかいらない理屈である。 夕方、雪見がてら市の中心部まで買い物に行ってきた。そのときはもう20センチくらい降り積もっていた。これくらい急に降ると、人通りの少ない歩道は歩けなくなる。車が適当に均してくれた車道を歩くのがいちばん楽だ。きょうはさいわい日曜日で車が少なかったから、かなりおおっぴらに車道を歩くことができた。やはり春の雪で、細かくて湿って重かったのだろう。街路樹という街路樹が小枝の先まで真っ白になり、まるでできたばかりの砂糖菓子みたいに雪化粧していた。終わったばかりの雪祭りの雪像など足元にも及ばない目にも鮮やかな見事な造形である。もうすこし降り積もると今度は重みで落ちはじめるから、こういう最高の瞬間というのは北海道にいてもそう何度もながめられるものではないのだ。まるで魔法の森に迷いこんだヘンデルとグレーテルみたいな気分になって、おじいさんは空に向かっておうおうと吼えながら機嫌よく帰ってきたのだった。 |
|
2004.2.15 温泉に行ってきた。今回は6泊7日の長逗留。わっ、すげぇ贅沢。と思われるかもしれないが、仕事です。仕事をするために行ったのであってそれ以外のなにものでもなかった。いま、以前連載したものを単行本用にまとめるための作業をやっているところだが、中盤にさしかかって新たに書き足さなければならない部分がかなり出てきた。それでここはどうしてもまとまった時間と、集中して仕事のできる環境とが必要になった。こういうときは、日常性というものを切り離してしまうのがいちばん手っ取り早いのである。 家のなかにいたらどうしてできないの? という人があるかもしれないが、家には自分以外の人間がいますからね。要は自分を追い込み、孤立させ、独りにならなきゃいけないのです。だって東京にいるときは仕事場をべつに構え、そこで30年家族と別行動で暮らしていたから、そういう条件を与えてやらないと躰が動かなくなっているのだ。ひとりになれるのであれば、べつに温泉でなくてもそこらのホテルだろうがアパートだろうがかまわないのである。ほんとをいうと気の向いたときにいつでもめしが食えるホテルがいちばん使いやすいのだが、和机に向かってあぐらをかかなきゃ仕事ができないほうだし、疲れたときは風呂へ入るのがいちばんリフレッシュできるし、といったことを考えるとやはりここは温泉かなー、ということになってしまうのだ(かなり苦しい)。となると24時間いつでも入れる温泉でなきゃ困る。むろん塩素殺菌をしたり循環させたりしているまがい物の温泉は論外、湧いてきた湯をそのままかけ流しに捨てている本物の温泉でなきゃー、とけっこううるさいのだ。実際夜の夜中、だれもいない浴槽に身を沈めたときザーッと湯がこぼれてゆくときの快感はこたえられないもので、その瞬間を味わうたびに少々の疲れなんか飛んでしまう。こういうありがたい温泉はさすがの北海道でもそれほど多くなく、辺鄙なところにあるから往復の時間もかかるのだが、その代わり宿泊料金も安い。もちろんいいことばかりはなく、食い物が口に合わないから食う楽しみは捨ててかからなければならない。 というわけでみっちり仕事をしてきたのである。だいたい着いた翌日がいちばんはかどるのだが、今回も1日で新原稿を30枚書いた。2日目が20枚、3日目は18枚とだんだんペースが落ちてきたが、これはやはり疲れがたまってきたから。これまでの経験からいうと1回5泊程度がもっとも効率がいいようだ。で昨日、一応当面の目標は達成してめでたく帰ってきたが、もちろんこれで終わったわけではない。まだ何百枚も残っている。それでまたきょうから、さてつぎはいつ出かけようかと、家にいるもうひとりの顔色をうかがいながら機会を狙っているところだ。 |
|
2004.2.5 恒例の札幌雪祭りがはじまった。それほど興味もなかったが、夕食の買い出しに行くついでがあったからのぞいてこようかということになり、午後からでかけていた。地下鉄で2駅先まで行き、雪像を見ながら歩いて帰ってくるのである。去年も出かけている。多分ことしで雪祭りも見納めになるだろうからと言ったとか。かみさんの話によるとこの3年ばかり同じことを言っているそうだ。 地下鉄に乗ったとき、きょうはずいぶん年寄りが多いなと思った。ふだんと明らかに客層がちがうのだ。電車を降りてエスカレーターに向かっていると、その人波がぜーんぶ年寄り。地上に出たらもっとおどろいたことに、ぞろぞろ歩いている雪像見物の群集がほとんど年寄りなのだ。おいおい、ここは年寄りのサファリパークか、と口走りたくなったほど。ワッペンをつけた観光客の団体までじいさんばあさんばかりだったのである。 平日の昼間だから若い人が少ないのは仕方ないにしても、これほど老人の姿が目立ったのは初めてだ。理由はわかっている。なによりも天気がよかったからだ。朝からよく晴れていたうえ、日中の最高気温も零度と比較的おだやか。しかもきのう、おとといと雪が降ったせいで地上には雪がたっぷりあり、足の滑る心配がなかった。多分それがいちばんの理由になったと思う。つるつるに凍った路面だったら年寄りは怖くて出てこられないからだ。その年寄りのなかにわれわれ夫婦もそっくりはまりこんでいたわけで、おれたち、いつの間にこんなじいさんばあさんになっちゃったんだろうね、と苦笑しながら歩いてきた。 年寄りは格好からしてちがうのだ。まず帽子をかぶっている人が圧倒的に多い。かくいうわれわれもそうだった。手袋とマフラー、寒くなってくると耳をすっぽりおおうことができる毛糸の帽子、以上3点セットは冬の北海道に欠かせないアイテムなのである。 雪祭りそのものは、行ってみたいと思っている人もいるだろうから忠告しておきますが、わざわざ見に行くほどのものでは断じてありません。雑駁なだけで美的センスのかけらもないからだ。しかもそれは年を追ってひどくなるばかり。どうやらスポンサーの発言力が年々増しているらしく、右を見ても左を見ても看板だらけ、人間はその間を歩かされている。看板抜きの雪像の写真など絶対に撮れない。見苦しいなんて段階は通り過ぎ、いまや醜悪にすらなっている。加えて大きな雪像は必ず舞台兼用となっていて、これがまたテレビ各社の宣伝と我田引水の場。くだらないイベントを大音響にやっているからその音が重なり合ってうるさいだけ。雪像を楽しむ気にはとうていなれないのである。 雪像そのものはよくできているのだ。その雪像をドカンとばかりそこへ投げ出し、さあ好きなだけながめて行ってください、北国の冬を満喫してください、記念写真を好きなだけ撮ってください、といった見る側の立場を考えた設定がどうしてできないのかとつくずく情けなくなる。今回で55回目だそうだが、これだけ繰り返してきてそういう反省はおろかなんの進歩も見られないこの鈍感さ、無神経さこそ、このイベントいちばんの見ものだといって過言ではないのである。 と、じじいはぶつぶつ言いながら帰ってきたのだった。 帰りも地下鉄に乗った。シルバーシートが目の前にあったからそれに腰掛けたところ、左右にじいさんがふたりいた。合わせて3人。これがどう見ても似たもの同士といっていい似かよったじじいだったんだよね。年恰好といい、風体といい。 いったいいつの間にこんなじいさんになっちゃったんだ? こないだまで30だったんだぞ。 |
|
2004.1.25 昨夜は夜中をすぎてから除雪車が来たため明け方までうるさかった。北海道に大雪が降ったのはざっと10日まえ。以来道路の両側に3メートルほどの高さに積み上げられていた雪の除去作業がやっと行われたということだ。といってべつに市が怠慢というわけではない。24時間体制で除雪作業はしているのだが、自分たちの周辺に来てくれるまでには10日から2週間かかるということだ。現にまだ行われていないところも多いのである。 夜間の冷え込みのきびしいところだから、その雪が10日もたつとすっかり凍り、氷みたいにがちんがちんになっている。それをのけるのだから除雪というより氷を削り取るといったほうが適切なくらい重工業的な作業になってしまう。当然がりがりがーがーと音もうるさくなるわけだ。 この間171センチもの大雪に見舞われた北見などはもっと大変で、1月はごみの収集なしという非常事態になっている。ごみ収集車が入って行けないというのだ。市の規定では10センチ以上の積雪があったら除雪車が出動することになっているそうだが、当初の計画ではこの冬全体で6回見込まれていたにすぎなかった。つまり年間それくらいしか降らないところだったのだ。それが一気に171センチである。おどろいたことに除雪した雪を捨てるシステムまでなかったというのだ。つまりたいして降らないから、降ったら除雪車が道路脇へ寄せてしまえばそれですんでしまい、その雪をダンプに積んで捨てに行く態勢はなかったのである。例年それですんでいたのが観測史上はじめてというどか雪。しかもこの雪は春まで解けてくれないのである。住宅街にまで除雪車が入ってくるのはまだだいぶ先のことだろう。 札幌辺りの除雪風景を見ていると、除雪車の後に何10台ものダンプカーが並び、吹き上げられた雪をつぎつぎと受け止めてはそのダンプが交代し、その流れに一瞬のゆるみもない。じつに大がかりである。と同時に、いかに膨大な費用が投じられているかわかって呆然とする。この金がほかのことに使えたら、とついつい考えてしまうのである。 しかし今週は天気も安定してきて、北海道じゅう比較的おだやかだった。一方本州は寒波と大雪、各地でかなり混乱を起こしているようで、そのニュースをテレビで見るたび、悪いけどにやにやしている。雪がつきものの北海道でこの騒ぎだから、本州ではもっと大変な騒ぎになるわけだ。それにしても本州の人は寒いだろうな、と寒波のニュースを見るたび同情したくなる。本州の家というのは例外なく低温に対して無防備だからだ。冬の気候はけっこうきびしいのに、その備えが今日に至るまでまったくなされていないのはある意味でおどろくべきことだといっていい。わたしなど北海道の温かさに慣れてしまったから冬の東京にはもう帰りたくない。いま三男が信州にいるが、朝起きると家のなかの気温が氷点下になっていることが少なくないという。北海道では考えられないことだ。本州の人間の辛抱強さには感心する。 きょうは快晴で風がまったくなかったから藻岩山に登ってきた。こういう日も珍しいのだ。札幌は石狩湾に面しているから冬になると北西の季節風がもろに吹きつける。このまえ旭川に行ったら、タクシーの運転手が旭川は風が吹きませんというからびっくりした。それ以来天気予報のたびに風の予報にも注意しているが、たしかに旭川は吹いていない。白、黄、赤の矢印で表される風の強さが、北海道じゅう赤マークだらけになっているときでも旭川地区だけ白ということがよくある。四方を山に取り囲まれた盆地だからである。 藻岩山は標高530メートルあまり、東京の高尾山と同じ程度の山だが、市街に隣接しているのがいい。家を出て15分もすると、もう登りはじめているのだ。昨年はじめて冬季にアイゼンをつけて登ったところ、道は適度に固まっているし、木の葉がなくて見通しはいいしで、むしろほかの季節より気持ちがよかった。きょうは気温がマイナス7度とやや低かったものの、視界が年間そうはないと思えるくらい良好で、山頂からは十勝岳から大雪連山までくっきり見渡せた。しょっちゅう来ているらしいご婦人のグループが、きょうは山を下りたくないねえと言っていたからやはり特別な天気だったのだろう。冬の間にあと数回は登っておこうと思っている。 |
|
2004.1.17 「仕事じゃー!」と錦の御旗を振りかざし、かみさんをほったらかしにしてひとりで温泉にこもってきた。4泊5日。当初は5泊するつもりだったが、ぎりぎりまで手配しなかったため取れると思っていた宿が取れなかった。それで泡を食って計画を練り直し、あっちを調べたりこっちを調べたりして出発が1日遅れたのだ。そしたら出かけた日から北海道は大荒れ、オホーツク海沿岸では観測史上初めてという大雪が降る騒ぎになってしまった。雪国の人には申し訳ないが、一度くらいはそういう大雪を体験してみたかった。こともあろうに今回出かけたところは、北海道でもいちばん雪の少ないところだったのだ。テレビでニュースを見て地団太を踏んだことはいうまでもない。 たしかに風は吹いた。しかし雪は4日間合わせても数センチくらいで、それも山をおりたら下はほとんど降っていなかった。きょう、雲ひとつなく晴れ渡った空の下を送迎バスに揺られて帰ってきたのだが、高速道路など乾ききってコンクリートそのまんま、ぶんぶん走って100キロの道のりをたった1時間で帰ってきた。市内で高速を降り、6車線や4車線の道路が雪で2車線になっているのを見て、え? こんなに降ってたの、とようやくおどろいた。道中、路肩にぱらぱらとしかない雪を見ながら「これでも北海道か。ホドクボ(小生の家がある日野市の山のなか)のほうがよっぽど降るぞ」と毒づきながら帰ってきたくらいである。行き先を完全に選びまちがえたのだ。 予定がだめになって急遽計画の練り直しをしたとき、口惜しいことに170センチを超える積雪を記録した北見のすぐ近くの温泉を候補にしていたのだ。もしそこへ行っていたら、大雪に閉じ込められて帰るに帰れず、温泉に入ってはひたすら仕事する、という得がたい体験をすることができたのに。しかもそこがいちばん有力候補地だったのである。ところがまだ一度も行ったことのないところだったので、最後はためらってしまった。というのも仕事をするために行くとなると、はじめてのところはかなり当て外れがあるからだ。温泉はよくても落ち着いて仕事ができないとか、設備が悪くて逗留するのはちょっとつらいとか、これまでの経験からいっても半分以上は不適格だった。だから仕事のために行く温泉というのはそれほど多くないのである。それに北見だと交通費が往復一万円以上かかるし、列車を降りてからもタクシーを使わなきゃならない。それに比べたら一方は送迎バスつきで、ただなのだ。正規のバスで行ったら往復4000円かかるところなのである。と、みみっちい経済事情が最終的にものをいって、ついつい安易な道を選んでしまった。口惜しいことこの上ないというものではないか。 今回の大雪、知らない人は北海道全域が降ったと思っているかもしれないが、降らないところは全然降ってないのである。要するに北海道はそれくらい広いということなのだ。われわれが普段使っている地図帳では各県ともふつう見開き2ページで掲載されている。北海道だけ4ページに分けて掲載されているが、これがじつは誤解の元、北海道はほかの県の倍もあるんだな、ととかく思われがちなのである。とんでもない。北海道は九州と四国を合わせたよりもっと大きいのだ。その中心地にある札幌から鉄道で函館、釧路、網走、稚内などへ行くとそれぞれ片道300キロ以上ある。稚内から函館までの総延長となると700キロを越えてしまい、これは東京を起点にしていえば東は青森、西は岡山の手前までに相当する。それくらい広ければ当然お天気だって天と地ほどちがうわけで、雪が降らないところがあってもいっこう不思議はないということになる。 新千歳空港も一日以上閉鎖がつづいたようだが、もともとあそこはそれほど雪の多いところではない。雪が少なく、霧が出にくく、風の強くないところ、ということで選定されたのが新千歳なのだ。今回泊まったのは4棟の建物からなるマンモスホテルだったが、航空機も列車も道路もすべてストップした日はキャンセルが相次ぎ、10階建ての建物1棟が完全に閉鎖されて一晩真っ暗な闇に閉ざされていた。夜中に大浴場へ行ったらほかの客がひとりもいなかった。強いていえばそれがはじめての経験だったということになる。 しかしそれより北見の大雪に遭遇したかった。返す返すも口惜しくてならない。 仕事はもちろんちゃんとやってきました。 |
|
2004.1.8 あっという間の1週間だった。例年になく穏やかな正月を過ごした。それというのも前回触れたようにひとまず仕事の区切りがついたからで、仕事を持ち越さずに年を越したのはほんとうに何年ぶりかだったのだ。 一方で3が日を過ぎないうちからつぎの仕事をはじめた。毎日何時間もパソコンに向かう習慣が年末ぎりぎりまでつづいたから、その勢いまで持ち越したというわけ。正月だからといって完全休養してしまうと、エンジンが冷えてしまって今度はなかなかかかりにくくなる。その切り替えも今回は割合うまくいったんじゃないかと自画自賛している。といったって一日せいぜい一、二時間の仕事量でしかないのだが。 4日にはじめて外出し、初詣に行ってきた。札幌にも北海道神宮というお宮があって、そこそこ人が出るのだ。ちなみにこのお宮は横綱時代の曙が土俵入りを奉納している。ここへの初詣は毎年ではないがときどき出かけている。ほかには行くところがないのだ。一度大晦日の夜中に出かけたことがあるが、雪が多かった上ものすごい人出でまったく前に進むことができず、おまけに地下鉄が終夜運転をやっていないものだから途中であきらめて帰ってきた。以来3が日は外して行くようにしている。 ことしはとにかく雪が少なかった。例年の半分以下といっていいだろう。そのため場所によっては滑り止めにまいたバラストのほうが雪より多いありさまで、参道などは砂利道みたいになっていた。雪が解けてざらめ状になっているから砂利道そっくりになってしまうのだ。ところがこの砂利道はいくら人が多くても土ぼこりがまったくたたないんですな。明治神宮の土ぼこりで景色が黄色くなってしまうような初詣とはえらいちがい。それを思い出してひとりで面白がってきた。 昨夜ようやくまた雪が降った。わが家近辺で20センチくらい。今朝はその雪を踏みしめて病院へ行ってきた。糖尿病の検査をしてもらいに行ったのである。結果は思ったとおり大吉。血糖値がやや高いほかはすべての数値が下がっていた。しかし糖尿病は誤診だった、とまでは言ってくれなかった。 気をよくして昼は博多ラーメンを食った。チャーシュウから卵、明太子まで具が全部入った「全部のせ」というやつ。おそらく600キロカロリー以上あったんじゃないかと思う。しかし朝めし抜きだったんだからこれぐらいはいい、と勝手にひとり決めして食ってきた。ところがそれから5時間たっているというのに全然腹がへらないのだ。わが胃袋メ、このごろわずかな量とカロリーで満足するよう慣らされてしまい、すこし脂っこいものを食うともうもたれはじめたのである。喜ぶべきか悲しむべきか、複雑な心境だ。なお体重はいまでも53キロ台前半を維持している。 |
|
2004.1.1 あけましておめでとうございます。 なんとか新年を迎えることができました。 大晦日の朝までかかって連載の最終原稿を仕上げ、ただちに送信。もらったほうはこんな日に原稿をもらったって迷惑なだけと思うが、こちらの帳尻合わせなんだから我慢してもらうしかない。年内に仕事が終わったかどうかは、正月の精神衛生に大きく影響するからである。 仕事はそれで何とかなったが、大晦日とあればやることは山ほどあった。昼はかみさんの買い物につき合い、午後すこし昼寝をして、それから自分の仕事部屋の掃除。4畳半の部屋ひとつを片づけるのにたっぷり2時間かかった。 なんせ万年床で、その布団の回りにいろんな本とか資料とかが山積みだったのだ。それをいちいち検分して、捨てるもの、取っておくものに分類。大量のごみを出し、保存資料はふたつの段ボール箱に収めて何とか片がついた。といってもこれまたダンボールのごみが増えただけのこと。これまでの経験からいうと最後は箱ごと捨ててしまうのがおちで、保存してあった資料がその後役に立ったためしはない。今度それらが必要になったときは、また新たに探したり買い求めたりしているのである。いつもその繰り返しだ。 最後に残ったのが年賀状。晩めしを食ったあとすぐはじめたが、時間はないし疲れているしで、ことしは全部パソコンのお世話になった。宛名ばかりか文面も印刷、手書きのコメントはすべて省略という味も素っ気もない年賀状になってしまったが、つくるのがやっとだったのだから仕方がない。はがきを買っていたからやむなくつくったが、そうでなかったら知らん顔をしてことしは出さずにすませたところだった。 おかげでテレビどころではなく、できた年賀状をポストへ投函しに行ったときは除夜の鐘も終わっていた。 それでも宿題なしで新年を迎えられたため、元日は気持ちよくすごすことができた。からだのほうは睡眠不足と肩凝りで最低の状態になっているが。 というわけでかわりばえしませんが、本年もよろしく。 |
|
「きのうの話」へ戻る |