きのうの話 |
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2003.12.30 天気がめちゃめちゃである。雪が少ない上に気温が高い。27日に20センチぐらい、久しぶりにまとまった雪が降ったと思ったら、きのうはもうプラスの5度、11月並の気温にもどってしまった。午後から買い物に出かけたのだが、大量の雪が解けて春先みたいにべちゃべちゃ、いたるところ水溜りだらけで歩道脇などはプールみたいになっていた。そればかりか、雨まで降ったのだ。この時期の雨というのは札幌へきてからはじめての経験である。 そしたら一転、きょうは最高気温がマイナスの3度ときた。きのう解けた雪がこちんこちんに凍りつき、今度はとても外を出歩ける状態にない。買い物に出かけるつもりで一旦は支度して外へ出たのだが、路面の状態に恐れをなし、キャンキャンとばかり逃げもどってしまった。わたしはまだ転んでいないが、先日はかみさんが転んでいる。年寄りにはつらい季節なのだ。 このところだいぶさぼっているが、じつは本職のほうで苦しんでいる。連載小説のラストがうまくまとまらなくてヒーヒーいっているのだ。11月いっぱいで脱稿します、と言っておきながら結局は12月にずれ込んでしまい、それも年末ぎりぎりというところまで追い詰められてしまった。なんとか明日は渡せると思うが、それも今夜の結果次第。連載小説は手をひろげているときはいいのだが、最後のつじつま合わせになるといつも四苦八苦する。今回も例外ではなかった。 おかげさまでまだ年賀状にも手をつけていない。こうなったら元日に書くしかないだろう。 押し詰まってきましたが、どうかよいお年を。 2004年がみなさんにみのりの多い年でありますように。 |
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2003.12.19 16日夜、雪の札幌へ帰ってきた。とはいえ今年は雪が少なく、しかも気温まで高い。昨夜、東京では見ることができなかった「アララットの聖母」という映画をかろうじて見てきたが、夜だというのに気温が氷点下まで下がらず、雪もみぞれに近かった。昨年はこの時期ニセコへ出かけているが、雪が深くて線路がまったく見えず、これで列車が走れるのだろうかと姿を現わすまで半信半疑だったのを思い出す。 きのうは加湿器を買いに行った。この数年使っていたものが動かなくなったからで、かみさんがうっかり水洗いしたのが原因だ。機械本体には水がかからないよう気をつけた、と本人は言っているが、動かなくなったのだからそのせいなのはまちがいないだろう。 売り場に行ってあきれたことに、何十とある商品がいずれも似たり寄ったり、ろくなものがないのである。使いもしない機能ばかりごてごてつき、空気清浄機を兼ねたものとか、マイナスイオン発生装置などという怪しげなものまでくっついている。加湿器は30年以上使ってきたが、その経験から言うとオンとオフ、ふたつのスイッチがあれば十分なものである。それ以外の機能はなんら必要ない。今回だめにしたのは札幌へ来てから買ったもので、韓国製だったがシンプルでよく働き、しかも価格は国産品の半値だった。国産品となると最低1万円、高いものだと2万円を越えるのである。 困っていたら隅っこのほうに、おもちゃみたいな加湿器があるのを見つけた。プラスチックのタンクに本体のユニットを差し込むだけの単純極まりない構造、アメリカ製である。しかも値段ときたら1980円と信じられない安さだ。箱を見るとこの商品をつくっているKAZというメーカーは、アメリカでもう70年以上スチーム加湿器をつくっている会社だとある。あまりにもチープなのでためらいはしたが、国産品のあほらしさに比べたらまだましかもしれないと思って買ってきた。そしたらこれが大正解。加湿器としては必要十分な機能を備えており、それ以上なんの不足もなかったからだ。 ポリタンクに水を入れ、このとき塩を一つまみ入れるというのがみそで、あとはユニットを差し込んでソケットをつなぐだけ。スイッチもなければ、ユニットをタンクに固定する装置さえない。だから水を入れすぎるとユニットがぶかぶか浮いてしまう。それでもちゃんとスチーム蒸気が出てくるし、操作音もほとんどしない。ユニットの電極棒というのが消耗品で、それが減ると取り替えなければならないそうだが1年間の保障はついている。いまのところ大満足。これから加湿器を買おうとしている人には二重丸つきでお勧めしたい。 日本の電気製品がよかったというのは過去の話、最近はろくなものがないと断言していいだろう。掃除機、スチームアイロン、冷蔵庫、テレビ、札幌へ来て買ったもののなかで5年間支障なく使えたのは冷蔵庫だけである。掃除機は数日でスイッチの接触が悪くなってすぐ止まる。スチームアイロンはお湯がふきこぼれる。テレビはリモコンが3年でだめになっていまではいちいち手で操作している。本体とは関係のない基本的なところがだめなのだ。 先月は通販でケットル、つまり電気湯沸器を買った。これもフランス製。もともとお気に入りの国産電気ポットがあって20年以上使ってきた。なぜそんなものが必要かというと、どこかにこもって仕事をするとき欠かせないからだ。コーヒーを飲むための必需品なのである。というのも、もとをただせばいまどきの旅館がろくな湯を出さないからで、となれば自分でつくるしかないわけだ。電動ポットがあるじゃないかという人もいるだろうが、あれは急須に湯を注ぐためのもの、コーヒー用のサーバーには始末の悪い代物なのだ。出っ張りがないからサーバーが置けないし、湯だってどぼどぼと出てコーヒーには最悪。それくらいならふつうの湯沸しを置いてくれたほうがよっぽどありがたいのだが、そういう神経を遣っている旅館は皆無。またシンプルな湯沸しをつくっている電機メーカーも皆無。これだけ多くの商品が氾濫しているのに選択の幅はまったくない。本当に必要なものは手に入らないというのがこの国の実情なのである。 そのポットがだめになったとき、すぐ買えるだろうと思って捨ててしまったのがなんとしても口惜しい。いまやそういう単純な用具は売っていない、というよりつくっていないのだから。それからは、それに代わるものを探して悪戦苦闘、いろんなものに手を出してきた。カップに電極を差し込んで湯を沸かす海外旅行用の電気ヒーターも買った。しかしこれはお湯が95度になるとサーモスタットが働いてスイッチが切れてしまう。電動ポットだって97度になると自動的にスイッチが切れるようになっている。こんな装置を考え出し、得々としている電気屋の首なんか片っ端からはねてやりたいくらい腹立たしいではないか。コーヒーというのは沸騰したお湯で淹れないと絶対にだめなのである。 それを今度、やっとのことで沸騰するまでスイッチが切れない電気ケットルを見つけたというわけ。それがフランス製だったのである。持ち運ぶには少々かさばるのが難点だが、代わるものがない以上、いまではこのケットル持参で旅行に出かけている。なんだか舶来品崇拝(懐かしいことば)みたいだが、国産品にないのだからしようがない。しかも値段は国産品よりはるかに安いのである。 シンプルなものは単価が安く、商売してもうまみがないことはよくわかる。しかし横並びのものばかり出すくらいなら、わが社はもっとちがう道を行こうと考える電気屋がどうしてこの国にいないのか、こういうマンネリにはつくづく愛想がつきる。 それでもうひとつ触れておきたいのがツアイスの双眼鏡だ。これも10年以上愛用してきたが、秋ごろから連結部分がゆるんでがたがたになってしまった。ふたつの像がずれ、焦点まで合わなくなってきたのである。それで直せるものなら直したいと思い、今回東京へ帰ったとき、市谷にある東京本社まで持って行った。だめなら買い換えなければなるまいと思っていた。そしたらこれはゆるんでますから締め直してきましょうと言われ、10分ぐらい待っている間に元通り締め直してきてくれた。画像も完全にもとへもどった。お代はと聞くと、けっこうですという。つまりただ。おかげでいちんち気持ちよくすごせた。もしこの双眼鏡を買い換えるときがきたら、つぎも迷わずツアイスを買うつもりである。 |
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2003.12.14 あっという間に二週間たった。久しぶりに帰るとやたら忙しい。来週は札幌へ帰るが、雪なしだった北海道もいまでは雪の下で凍てついているらしい。 本州でもぼちぼち降りはじめたようだが、雪がまだなかったのをさいわい、先週末は金沢まで車で行ってきた。取材である。かみさんに言えば心配するし、子どもに言えば叱られるに決まっている。おやじの運転は見てられないからもう免許を返上しろとまで言われているのだ。それで黙って出かけた。 札幌から帰ってくるとき、ついでに寄って来ようかと思わないでもなかった。ところが敦賀や直江津へ行くフェリーの時間帯がよくなくて、暗くなってから到着する。着いた早々知らない街で宿探しをするものおっくうだから、しかたなくまっすぐ帰ってきた。ところが戻って来てみると本州はまったく雪が降っていない。これなら無理しても寄ってくるんだったと、急に未練がでてきた。夏タイヤしか持ってないので雪が降ったらお手上げなのである。週明けから寒気が入ってきて本格的な冬になるという天気予報だったから、それならいましか行く機会はないとにわかに思い立ったのだ。 夜中の12時に家を発ち、八王子から中央高速にのって松本着が2時。そのあと安曇から安房トンネルを通過して3時に岐阜県入り。この間の最低気温は3度、雪がなかったので案じることはまったくなかった。そして5時には富山から北陸道へ入った。 金沢へ6時に着き、どこかのパーキングエリアで仮眠をとると3時間半も眠りこけてしまい、目が覚めたら9時半だった。それから金沢市内へ。といっても今回の目的地は市外だから市の中心部には入らずじまい。そのあと能登へ回った。天候は終日雨。雨は夜になってますます強くなり、寒気も入ってきて大荒れになるという予報だ。 当初はどこかで泊まるつもりだったが、雪になると困る。取材の最小限の目的は達したし、この際このまま帰ったほうが無難かもしれないと思い直した。それで5時、能登から帰途に着き、滑川のインターチェンジからふたたび北陸道に乗って糸魚川で降りたのが21時半、それから穂高経由、松本からまた中央道。4時には八王子インターへぶじ帰り着いた。 つごうゼロ泊3日という強行軍。この間ずっと雨が降りっぱなしで、走った距離が1100キロ。これをすべてひとりで走り通したのだから、66歳のじいさんにしてはけっこうなスタミナだ。しかし帰ってきてから肩が凝って肩が凝って、いまだに凝りっぱなしだ。 月曜日からは急ぎの仕事。これが3日かかった。この際だから独りごとを言ってしまうとSY社の「小説す×る」からの頼まれ仕事。北方×三と大沢×昌の対談に途中から逢坂×が参加。それをなぜかわたしと馳×周がまとめるという仕事なのだ。延々3時間に及ぶテープ起こしの「しゃべり放題、中味なんにもなし大呆談」速記録を、高尚かつ有意義にして日本文学史に燦然と残るようなものにせよ、という注文。とてもその器じゃないから断ろうかと思ったのだが「自分より売れている作家の悪口を言える機会があったら女房を売りはらってでもやれ」という親の遺言があるものだからいやいやながらやったのだ。 そしてきょうは病院に行ってきた。このまえ説明を受けに行ったとき、初診者として一回来院するように言われたからそれに従ったものだ。じつをいうと、きのうも出かけたのである。ところが座談会のまとめの仕事が朝までかかったため起きられず、午後から出かけたのだ。そしたら初診の受付は朝の8時20分から11時までだと言われた。午後の診察もやっているのだから、その時間帯であれば何時でも受けつけてもらえるだろう、と勝手に解釈して行ったのだが通用しなかった。かみさんからは初診患者が午後からのこのこ行くなんて非常識きわまりないと言われた。 それで悔しいからけさは6時起きして6時半に家を出た。病院に着いたのが7時半。玄関のドアを開けてくれるのが7時半だったのだが、そういうことも知らずに出かけたのだ。しかしおかげで1番の受付札をもらった。何によらず、1番なんて札をもらったのははじめてである。それから診察カードをつくってもらい、耳鼻科の窓口へ行ったのが8時20分。診てもらえたのが9時過ぎで、そのあと血液検査とレントゲン撮影をしてもらい、つごう3回通ってやっと次回の予約を取ることができた。 で、その予約日というのが6月30日。つまり来年の花粉症には間に合わないから、これは自前でなんとかしなければならないわけだ。花粉症の症状が出ているときは手当てできないそうだからしかたがない。今度こそはおとなしく治療を受けようと思っている。カロリー制限と同じ、やるときはやるのだ。と息巻いてみたところで、自慢にもならないか。 |
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2003.12.3 週末に東京へ帰って来た。 車を持って帰ったもので、苫小牧から秋田、新潟経由のフェリーを利用した。ことしは雪が降らなかったため、いままでのなかでは帰るのがいちばん遅くなった。 ほとんどの人は夏のフェリーしか知らないと思うが、いまはフェリーがもっとも空いている時期である。今回トラックを除いたふつうの乗用車部門は、秋田行きがたった7台、新潟行きにいたっては2台しか乗っていなかった。もちろん船内は超がらがら。食事どきになると食堂のカフェテリアが開くのだが、職員が5人くらいいるのに客もそれくらいしかいなかった。 新潟に上陸したとき最初に感じたこと。 「あー、暖かい」 なんせ気温が13度もあったのだ。夕方から夜中にかけて関越を帰って来たのだが、上越の山のなかでも10度を切ることがなかった。八王子市内へ入るとイチョウの葉が青々しているのでびっくりした。内地はまだ晩秋だったのである。 今回はもうひとつ目的があって帰ってきた。来年の春に備え、ちゃんとした花粉症の治療を受けようと思ったのである。病院へ行くのがいやさにこれまでいろんな民間療法を試してみたが、どれひとつとして効いたものがなかった。そうしたらこの間、鼻の粘膜を焼く治療法というのが新聞で紹介されていた。ごく簡単な治療のうえ通院も1、2回ですむという。 これこれと思った。治療を受けるのがいやなのではないのだ。病院へ行くと途方もない時間をとられ、それを何回もやらなきゃならないから参ってしまうのである。数回ですむならこれに越したことはない。それにその治療をしてくれる大学病院が相模原と、自宅から近いのもありがたい。 というわけで早速月曜日に電話してみた。すると記事が出てからだいぶたっているのに、以来電話がかかりっぱなしらしいのだ。直通のほうへかけ直してくれといわれたから一日ダイヤルしてみたが、ことごとく話中。どうにも埒が明かなかった。 それなら直接行ってみるまでよ、というのできのう、病院まで行ってきた。ところが思いもよらないことに、道をまちがえてしまったのである。 多摩にはもう30年以上住んでいる。この界隈なら自転車、バイクで走り回り、自慢じゃないが山のなかの小道に至るまで全部知っているつもりだった。その知識がまったく通用しなくなっていた。 考えてみると当然だった。北海道へ行って5年になろうとしている。5年もたてば、東京、とくに多摩の郊外は激変してしまうには十分なわけで、新しい道ができたり団地ができたり、景観がすっかり変わっていたのだ。自然が残っていたところほど変わり方もはげしいのである。 そうなると、なまじ以前の知識があるだけに余計いけない。たしかここを曲がればいいはずだ、と思って曲がってみるとますます見たこともない街並みになっている。あれ? あれ? といってる間にとうとう自分のいる位置までわからなくなってしまった。相模原の街のなかへ入ってからはなんとかわかったが、それでも病院へ行くのに一時間以上もかかってしまった。 帰ってきて地図を開き、きょう通ったところ、迷ったところをチェックしてみた(地理をおぼえようと思ったらこの復習行為が絶対に必要)。ところが自分の通った道順すら正確にたどれないのだ。5、6年前に発行された1万分の1地図が、地域によってはまるで役に立たなくなっているのだった。 こういうときカーナビがあれば便利なんだろうけど、ケータイとカーナビは意地でも持たない主義である。だからこれからも帰ってくるたび、あっちこっちで迷いそうだ。 そういえば帰途、関越から圏央道に入り、現在の終点となっている日の出から一般道へ出たときも道をまちがえた。前に一度通っているし、そのときはすんなり帰れたからまちがえるはずはないはずなのに、八王子の中心部へ入ったつもりがいきなり拝島の駅前だったから唖然とした。 なお花粉症の治療のほうは、今年の受付はもう終わっていた。つまり来年春からはじまる花粉症には間に合わないわけで、再来年の花粉症対策ということになる。せっかくだから手続きだけはして帰ってきましたけどね。北海道ののんびりした空気に染まりきってしまい、東京が激烈な競争社会だということをすっかり忘れていた。田舎者がときに使いものにならない原因はこんなところにもありそうだ。 |
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2003.11.27 頭にきた。あろうことか、自宅マンションの前で交通違反の切符を切られてしまったのだ。一時停止をしなかったせいである。罰金7000円。 じつをいうと先月も速度違反でつかまって、このときは12000円支払っている。今回はさすがにむかついたから、切符を切るなら勝手に切るがいい、サインはしない、とごねて一時間近くお巡りとやりあっていた。もちろん一旦停止しなかったこちらが悪い。しかし素通しに近い見通しのいいところなのだ。周囲に車一台、人一人いなかったから左折信号だけ出してそのまま左折した。そしたら右の物陰に隠れていた車(ワゴン)がうれしそうに飛び出してきたというわけ。自宅マンションのまん前である。 彼らがここで取締りをやっているのは、これまでいやというほど見て知っていた。仕事部屋のすぐ下なのだ。サイレンが聞こえ、停止を命じているアナウンスが聞こえるたびにのぞいて見たものである。しかし直線区間は短いし、それほどスピードを出すところでもない。何でつかまったんだろうと、うかつなことにこれまでまったく気がつかなかった。頭上に一旦止まれの標識が出ていることすら意識しないようなところなのだ。 もともと交通量の少ないところである。図が描けないので口で説明するしかないが、いま住んでいるマンションは全部で200世帯もある大規模マンションでA、Bふたつの棟がある。敷地は横に細長いやや変形した四角形で、わたしの住むB棟は敷地の右側を占める。その四辺はすべて道路。また前の道路は路上パーキングにもなっている。 四角形の上辺の道路は豊平川の土手の上を走る道だ。この道は左角のところで豊平川にかかる橋と直角に交差し、ここには信号がある。この土手の道だけが中央分離帯のない狭い道で、ほかはすべて片側2車線の堂々たる大路である。信号はもうひとつ左下の角にもある。しかし右側のほうはふたつともない。一時停止の標識が出ている交差点は右下の角である。 場所は札幌の中心部を縦に貫く駅前通りから東へ1キロほど入ったところ。酒造工場、マンション、小さな会社、お寺などがあるひっそりした通りで、2ブロック手前から車の数はがくんと減る。そしてこの交差点になるのだが、かたちとしては一応十字路になっている。しかし実質的にはT字路で、右側は奥行きが10メートルたらずで行き止まりとなり、道路全体がどこかの駐車場と化している。つまり右から出てくる車のことはまったく考えなくてよい交差点なのだ。取締りの車がいつも潜んでいるのがここなのである。 Tの字を左折せずにまっすぐ行けば10メートほどで豊平川の土手の道に突き当たり、ここもT字路になっている。この道は狭いだけでなく周辺との連絡も悪いためあまり車は通らない。だがT字路を突き抜けて土手の道経由で橋へ向かう車はけっこう多い。左折して左から橋へ向かうより信号がひとつ節約できるからだ。一方その逆、つまり橋から土手の道を経由してこのT字路に入ってくる車はきわめて少ない。 借りている駐車場から車を出してきてマンションへくる場合、いつもこのT字路を左折している。このT字路の左手前、つまりわたしのマンションの前は車が100台くらい収容できる広大な駐車場で、舗装もされていない砂利の原である。周囲に鉄パイプの柵がしてあるだけ。したがってこの道路のどこにいても、向かいから走ってくる車、道路を渡っている人があれば何の障害もなく見渡せる。だからこれまで何10回、何100回とここで左折しているのだが、なにもかも目視できるため、一旦停止の標識があることすら意識したことがなかった。利用する側から言えばそういう必要がまったく感じられない交差点なのだ。ということは、罰金をふんだくる側にしてみたらまさに願ってもないおいしい稼ぎ場所ということになる。しかも車一台身を潜めておける隠れ場所まであるのだ。 先月のスピード違反は千歳市街から支笏湖へ向かっていたときのことで、家並みがなくなってこの先は20キロぐらい一軒の人家もない、誰しもがぐっとばかりアクセルを踏み込むところだった。最高速度50キロのところを16キロオーバー。このときも相当むかついたが、東京から来た編集者を3人乗せていたからおとなしく引き下がらざるを得なかった。 しかし今回はひとりだ。しかもかみさんは不在。毎日パソコンに向かっているだけの、退屈で、刺激のない生活にうんざりしているじじいときて、しかも恨みつらみなら山ほどあるときている。この際サインを拒否したらどうなるか、徹底的に抗戦してみるつもりだったのだ。 「あんた、開き直るのか」 と言われたが、もちろん開き直りだ。法を犯したことにちがいはないからこちらに正義はない。しかも向こうは権力を持っている。だったらこっちとしては開き直るぐらいしか手がないではないか。さあ殺せとばかり、逮捕するなり勾留するなり好きにせえ、と免許証とキーを差し出して言いたい放題毒づいた。いくら非を諭されようが、わかってて開き直っているのだから話が噛み合うわけはない。話は平行線をたどるばかりで埒が明かず、向こうも持て余していた。こっちが抵抗している間ほかの違反車は指をくわえて見送るしかないわけで、それはそれでこっちの頑張り甲斐になるというものだ。ほんとはもっとねばりたかったのだが、情けないことに腹が減っていた。じつをいうとそのときも、買い物がてらめしを食ってこようと出てきたところだったのだ。だいぶ溜飲も下げたことだし、最後はサインをして引き下がったが、このつぎにつかまるとしたら、もっと条件のいいときにつかまりたいものである。 いま夕方の6時をすぎたところ。札幌はもう真っ暗である。しかし上からのぞいてみると、連中、まだやっていた。わたしで手こずったのできょうのノルマが達成できなかったのだろうか。いましも、徐行はしたが一旦停止までしなかった車を見つけ、サイレンも高らかに嬉々として追いかけていったところだ。 これでも交通事故の防止や交通道徳の向上のために働いているんだって。 やっていることは追いはぎ以外の何ものでもない。 街道筋で旅人から金銭をかすめとる制服を着たゴマのハエである。 |
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2003.11.14 雪が降りはじめた。市内でも2、3センチ積もったようだが、あいにくその時期市内にいなかったので見ていない。どのみちいまの雪はみぞれに近く、降っても数時間たてば消えてしまう。しかし市の中央区にある藻岩山までうっすらと白くなってきたのを見ると、いよいよ冬がきたなとあらためて覚悟させられる。雪に埋もれる生活がまるまる4ヶ月つづくのである。 根雪の降る前に車を東京へ持って帰らなければならないのだが、ことしはまだぐずぐずしている。編集者が尋ねてきたりこちらの仕事の進み具合のせいだったりするのだが、4度も冬を過ごすとだんだん横着になって、まだいいだろうと高をくくっているところもある。小樽のフェリー埠頭までなんとか運転して行けばあとは船に乗るだけだから、ことしは11月ぎりぎりまでねばってみるつもりなのだ。 というのも北海道では車がないとなんとも不便で、行動が大幅に制限されてしまうからである。早い話温泉ひとつ行くにしても、車がなければどうにもならない。バス便があるのは大きな都市の間だけで、あとはJRかタクシーしかなくなる。温泉があるようなところはたいてい辺鄙だから列車があっても1日数本というようなところが多い。今年の1月にニセコへ行ったときは、宿泊費が8000円だったのに対して駅からのタクシー代が片道5000円もかかった。JRの料金まで入れると足代のほうが高いのである。 それでいまのうちにということと、かみさんがいない間にということもあって、毎週のようにあっちこっち足を伸ばしまくっているのだ。 ところが先日、ひやりとする思いを味わった。日曜日の夜の9時過ぎから急に思い立ち、定山渓の先にある豊平峡温泉というところまで入浴に出かけた。わたしの贔屓にしている温泉のひとつで大きな露天風呂があり、しかも夜の12時まで受けつけてくれる。車だと片道45分、手ごろな距離である。 で、1時間あまりのんびり入浴し、向こうを発ったのは11時過ぎ。日曜日の夜だったから道路はすいていたが、それでも市内に入ってきたときはもう12時近くになっていた。 いつも通る道に豊平川沿いのバイパスがある。土手の上を走っている道路で右岸と左岸がそれぞれ一方通行、橋と交差するところに信号がある以外ほとんどノンストップで走れるちょっとしたハイウエイだ。そのときも90キロぐらいのスピードで走っていた。前に一台車がいて、あまり接近するのはいやだから三十メートルくらい間隔をあけていただろうか。 ある橋にさしかかったところ、信号は青になっていた。それで前の車はそのまま減速もせず交差点に入っていった。こちらもそれにつづこうとしたのだが、ひょいと見ると橋の上を右から走ってきた車がまったくスピードを落とさずそのまま接近してくる。まさかとは思ったが、用心にこしたことはないから心持ブレーキを踏んで減速した。そしたらその車、そのまんま交差点へ突っ込んできたのである。明らかな信号の見落としだ。 2台の車が接触、橋の上を走ってきた車はわたしのすぐ目の前で一回転して見事にひっくり返ってしまった。どちらの車もふたり乗り。さいわい大きな怪我はしなかったようだが、それにしても車がこんなに簡単にひっくり返ってしまうとは思いもしなかった。ただそのとき1秒の何分の1かでもタイミングがずれていたら、ぶっつけられたのはわたしの車だったかも知れず、肝を冷やして早々に逃げ帰った。これに懲りて、以後夜中にのこのこ温泉に行くようなことはやめようと思っている。 |
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2003.11.7 1週間留守にしていたが、まだ晩秋がつづいている。あすにも雪がちらつくだろうと書いた前回の予想は大はずれ。気温が11月では観測史上はじめてという22度を越える日まであって雪のかけらもない。おかげでどこへでも車で行くことができてその点は大助かりである。 ただ前回出かけたときより2週間たっているせいもあって景観は一変していた。木の葉がすべて落ちてしまい、黄葉で残っているのはカラマツくらい、あっという間に山水画の世界に変わっていた。雪を見たのは標高1900メートル近い羊蹄山の八合目から上だけ。ようやく旭川方面で降りはじめたようだが平年より2週間遅れだそうだ。 きのうは東京から来た編集者とニセコにいた。ここはさすがにいつ雪が降ってきてもおかしくない雲行きだった。気温も朝方は零度近くまで下がったかもしれない。このあたり、いくつかの道路はすでに閉鎖されていた。北海道では冬季閉鎖される道路が少なくなく、完全舗装されている2車線の道路でも山間を走るものは11月に入るといっせいに遮断機をおろし、長い冬眠に入ってしまう。まだ雪が降ってないから通れると思ってのこのこ行っては引き返す、というのを今回も数回やった。まだ通れる、もう通れない、が基準ではないのである。道路行政上はもう完全な冬季体制に入っているのだった。 残念だったのは、編集者ふたりを神威岬まで連れて行きながら肝心の岬まで行けなかったこと。強風のため岬への遊歩道まで閉鎖されていたのである。岬へは徒歩でしか行けず、往復すると3、40分くらい時間がかかる。気温3度、けっこうアップダウンのある道で、しかも吹き飛ばされそうなくらいの強風。それを、せっかくここまで連れてきたやったんだから行かないほうはないだろう、と作家対編集者の立場をかさに強要するつもりでいたのだ(むろんわたしは車の中で待っている)。そしていい年をした大の男が、鼻水をたらしてぶるぶるふるえながら帰ってくるところを写真に撮って送りつけてやろうと思っていたのにその楽しみがかなわなかった。編集者いわく。「いやー。行きたかったなあ。せっかく来たのに残念だ」。 今月末には東京へ車を持って帰る。こっちへ置いておいても乗れないからだ。雪道やアイスバーンでの運転経験ゼロ、冬タイヤも持っていない。したがってこれからは行動範囲が大幅に限定される。温泉に行けなくなるのがつらい。なにしろ距離があるから、タクシーに乗るとえらく高いものについてしまうのである。 |
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2003.10.26 イチョウやヤナギが黄色くなり、ナナカマドが赤くなって街路樹の色が劇的に変わってきた。吹く風も冷たくなり、朝方の気温が4、5度まで下がりはじめた。これでも例年よりは暖かいような気がする。はじめて札幌へやってきた4年前の日記を見ると、10月17日にボタン雪が降り、18日には初氷が張っている。多分あと1週間以内には初雪も降るだろう。春や夏の季節もいいが、冬を迎える前のこのあわただしい季節も好きである。なんらかの覚悟を迫られるような思いがするのだ。 年のはじめの予定だと10月じゅうにつぎの転居先を決め、11月には引越しをするつもりでいた。それがすこし遅れそうだ。おそらくこのまま札幌で新しい年を迎えることになるだろうと思う。あと数ヶ月で終わる新聞の連載小説と、すでに雑誌連載の終わっている原稿のまとめとをこの際一挙にやってしまおうと考えたからだ。新しいところに移って心機一転という考え方もあるが、やはりばたばたしてしばらく落ち着かないだろうから、だったら雪に閉じ込められて仕事をするしかない札幌にいたほうが、まだしもいいのではないかと考えを変えたのである。 先週編集者を連れて行った小さな温泉宿は、じつは来月から自主カンヅメで籠もるつもりをしている候補地のひとつだった。その下見を兼ねて行ってみたのである。なんせ宿が一軒と民家が数戸あるきりのなんにもないところだ。買い物ひとつするにも車を10分以上走らせなければならない。唯一の取り柄が邪魔をされないこと(家にいるヌシから)。しかも1日24時間、いつでも温泉に入れる。そうなればもう腹をくくって仕事をするしかないではないか。疲れたら温泉に入って横になる。昼も夜もなく、万年床のまま、滞在中は掃除もしてもらわない。 ただしそういう状態に自分を追い込んでも集中力が持続できるのはせいぜい5日間である。それ以上になると疲労がたまって仕事が雑になる。都会の明かりが恋しくなるし、なによりもふつうのめしを食いたくなる。旅館のめしというのは最初の日はご馳走、2日目はうんざりで、3日目からは拷問になる。そういう意味からいえば、毎日家で食っているふだんのめしというのはなんとも偉大な存在だ。今回は食う楽しみというのを最初から放棄しているからどういう結果になるか。多分新しい経験になると思うからそれを楽しんでこようと思っている。 |
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2003.10.18 秋たけなわ、テレビが連日紅葉の名所を紹介している。そのたび、そわそわと落ちつかなくなる。北海道に来てこれで5回目の秋だが、紅葉がこれほどきれいな年はこれまでなかったのだ。赤や黄の鮮やかさが例年とまるでちがう。これはことしの天候不順と関係があるとかで、つまり冷夏だったため木の葉を食う害虫の発生が少なかったせいだという。そのためきれいな葉がそのまま色づいて秋を迎えたのだとか。 今月は10日にも日帰りでニセコへ行ってきた。イワオヌプリという標高1100メートルほどの山に登り、帰りに温泉へ入り、持参したポリタンクに甘露水という名水を汲み、最後に道の駅へ寄って地元農家のつくった野菜を買って帰るというわが家の定番コースである。年間を通せば5、6回は出かけているだろうか。そのニセコの紅葉がことしはなんとも見事だった。 ただしもう終わってしまった。最盛期のきわめて短いのが北海道の紅葉の特徴で、週末まで待ったり天気のいい日まで待ったりすると間に合わないことがある。ことしの秋は天気がいまひとつでからっと晴れた日が少なく、雨も多いから、そうなるといいときに見ようと思ったらそれなりに大変なのだ。なにしろ北海道の木は葉がいつまでも木に残っていない。すこし色づいてきたからあと1週間もすればもっとよくなる、なんて思ったら大まちがい。色が変わる前にさっと散ってしまうのである。 亭主が相手をしてくれないせいか、おとといはかみさんがひとりで豊平峡へバスツアーの紅葉見物に出かけた。豊平峡は定山渓の先にある紅葉の名所でダムが築かれている。札幌雪祭りのときの雪像用の雪がじつはここから運び出されている。ツアーとはいうものの、バス会社がこの時期だけ走らせている1日1便の臨時便なのだが、その日は客が多すぎて乗り切れず増便が出る騒ぎになったそうだ。翌日からまた天気がくずれるという予報だったため、みんながその日に殺到したらしい。数日遅れたら手遅れになることをみんな知っているのである。 今週は東京から編集者が来たのでそれにかこつけてまた紅葉見物をしてきた。洞爺から登別へ抜けるオロフレ峠を通ったとき典型的な北海道の紅葉を見ることができた。山裾の紅葉のはじまったばかりのところと、中腹のいまが盛りのところ、頂上近くのすでに終わりダケカンバの白骨林となってしまったところとが、標高800メートルの峠を上下する間にめまぐるしく変わってしまうのだ。 ほんとうは旧峠の上からの景観がいちばんよかったのだが、あいにく帰途の時間が迫っていたためそっちは割愛せざるを得なかった。そしたら航空機の都合がつかなかったとかで出発が大幅に遅れ、おまけに羽田までもどってくると千葉で震度4の地震が発生して滑走路が全面閉鎖、霞ヶ浦上空で20分時間待ちをさせられたうえ、さらに京急は人身事故で不通になるわ、モノレールは一時に殺到した乗客で通勤ラッシュ並みの大混雑になるわ、散々だったらしい。どこの編集者だったかは言わないが、ふだんの行いが悪いとこういうことになる。思い当たることがあるはずだから当事者は深く反省するように。 今月はまだ来週客が来る。10月に入って3組目の来客だ。となればまた紅葉見物に連れ出さなければならないが、案内と称してじつは自分たちがいちばん楽しんでいることはたしか。それでも今回はもういい紅葉には間に合わないかもしれないと、いくらか気をもんでいるところである。 |
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2003.10.5 かみさんの兄姉を案内して道東まで行ってきた。紅葉見物を兼ねての温泉旅行である。7、8年ぐらい前にも一度東北へ行ったことがある。そのときは十数人が参加、和気藹々とした楽しい旅行になった。かみさんが6人きょうだいのいちばん下なのである。ちなみにわたしは5人きょうだいの長男、こちらも4年前に全員の夫婦が参加して北海道旅行をしている。 ひょっとするとこれが最後の旅行になるかもしれないというのでだいぶ前から計画していたのだが、いざとなると不幸があったり入院する人が出たりして最終的にはふたりになってしまった。われわれ夫婦を入れても4人である。しかもその直前に十勝沖地震が来て、道東はそれどころではなくなってきた。いっそやめようかということまで検討したのだが、航空券は買ってあるし、宿の手配もしてある。それで周遊地を変えることにしてとにかく出かけることにした。兄姉とも高知在住。千歳へは直通がないから羽田乗換えとなり、キャンセル料だってばかにならないのである。 そしたらひどい天気になった。4日間のうちまともに晴れてくれたのは1日だけ、あとは全部雨。それも半端じゃない雨で、土砂降りに何度見舞われたことか。強い雨そのものが北海道ではきわめて少ないのである。しかも毎晩目が覚めてしまうほどの余震があり、平穏無事だった夜は1日もなかった。昼間は車で動いていたから気がつかなかっただけのようなのだ。 しかしなんとか無事に旅行でき、紅葉もそれなりに堪能できた。天気がよかったらもっと感銘も大きかったと思うが、それは望みすぎというものだろう。この間レンタカーの走行距離が1500キロ。といっても今回は運転手としてせがれを呼び寄せたから、わたしが運転したのは200キロ足らず。ひとりだったらとてもこれほどの遠出はできなかった。 旅館のめしを3日食ったから、体重が増えやしないかとそれが気がかりだった。しかしわれながら誉めてやりたくなるほどセーブして、節食、少食で通した。おかげでまったく増加なし。ちなみにいまの体重は53キロ台、あれほど願望していた40代にいとも簡単にもどってしまった。そのためズボンのベルトがすっかり合わなくなった。じつをいうと今年の春、もうはくこともないだろうというので、これまでのズボンはすべて処分してしまったのだ。いまになって捨てるんじゃなかったと後悔しようとは思いもしなかった。 しかしからだが軽くなってきたのはいいとして、人目にはどう見えていることか。糖尿で痩せた友人を何人も見ているが、よそ目には脂っ気がなくなってぱさぱさになってしまったようにしか見えないんだよなあ。 夜の冷え込みがきびしくなって、おとといから仕事部屋の暖房を稼働させはじめた。 北海道はまもなく冬である。 |
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