Essay 財布の紐 『文藝春秋』 (文藝春秋社) 2003年6月号より |
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親しくしていたある女性が亡くなった知らせをもらったとき、いちばん先に頭をかすめたのは葬式費用の用意があるだろうかということだった。彼女はこの三十数年独り暮らしをしていて、晩年は国民年金以外に収入があったとは思えなかったからだ。 孤独な人だった。結婚したが子どもがひとりできたところで離婚した。以後さまざまな仕事をしながら子どもを育てた。日の当たるところは歩いてこなかった人だ。自分の家を持つこともなく、二間しかないアパートに終生住んだ。それが脳溢血で突然亡くなったのである。 その彼女が実際は驚くほどの預金を持っていたと知ったときはみな呆然とした。庭つきの家くらいは楽に買える現金が銀行に預けられていたのである。だったらその金でどうしてもっと安楽な余生を送ろうとしなかったか、ときには旅行くらい楽しんでもよかったのじゃないか、と周りのものは悲しさとも空しさともつかぬ衝動に突き動かされた。むろん彼女の気持ちは痛いほどよくわかる。金で苦労してきたにちがいないから、怖くて使うことができなかったのだ。わたしだってその立場だったらおそらく同じだったろうと思うから、よけい切なかったのである。 おりからテレビが、消費生活の過熱で個人破産が増え、アメリカ経済が失速しかけているというドキュメンタリーを放送したところだった。生きてるうちが花よとばかり、借金の返済を先送りして現在を楽しむアメリカ流の人生哲学にはべつの意味で呆然とさせられたが、そういう景気がアメリカ経済を全体的に押し上げていたことは疑いないところだろう。 ひるがえって日本の不況の一因は、金がないのではない、金を持っている世代が金を使わないからだとはよくいわれる。たしかに彼女を例に引くまでもなく、いまの日本の高齢者はたいていかなりの金を持っている。ところがこの人たちは、いまの生活をエンジョイするという観念からはもっとも遠いところにいる人たちでもあるのだ。将来が不安だから万一のときのことを考えて金を貯めてきただけであって、そこには使うことを前提とした思考がない。結果としてこれらの人のところへ集まった金は社会へ還流されることなく退蔵され、金不足の原因をつくりだしているのである。 かといってこういう人に、いまから考えを改めて金を使えといっても無理な話だ。みながみな戦後の貧しさをくぐり抜け、懸命に働いて現在の暮らしや生活を手に入れてきたのだ。金を貯めることは頭にあっても使うことは端からなかった。物のないことや我慢することがあたりまえだったから、欲しがらない習性まで身についた。身のほどを知るというか、柄にもない高望みはしない。高級品やブランド品を目の前に突きつけられても、そういうものを所有したい意欲がわいてこないのだ。訴求力を持たなかったらそれはもう商品とはいえない。物がますます売れなくなる理屈である。 べつに禁欲的な生活をしているわけではないが、わたしの購買欲、消費欲も最近はますます低くなっている。デパートは地階の食料品売り場以外いらない。一階から上はなくていっこう困らない人間になってしまった。年間にシャツの一枚も買うことがあるだろうか。この数年に買った高額商品というと、車とパソコンを買い換えたことくらい。その車もハッチバックの小型車しか乗らないときめているから、どのような高級車が出てこようと関係ないのである。よりグレードの高い車に乗り換えるという発想がまったくない。こういう人間の頭の中身を変えさせ、なにか売りつけようというのは考えてみると途方もないことではないかという気がするのだ。 金がもっと市場に出回ってくれたら日本経済も活気づく、とはわかっていても、ではどうしたらいいか、となるとわたしのような門外漢にはわからない。ただ需要を喚起すればいいというものではなく、日本の社会構造のあり方そのものを変えなければならないからだ。大所高所からの経済学もけっこうだが、どうしたらもっと金を使ってもらえるか、現場の人は根底から考えを改める時期にきているのではないか。デパートの商品構成があまりにも衣類偏重なのは、旧態依然、小売業がいちばん遅れているような気もするのである。 この不況、おいそれとは解消しないだろうな。 |
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