Shimizu Tatsuo Memorandum
志水辰夫の------------------------
日録断想  『産経新聞』掲載

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 最低気温がマイナス十度に達した酷寒の夜、よりによって暖房が故障してしまった。給湯、暖房の両方を受けもっているガスヒーターが働かなくなってしまったのだ。これ一本にたよっていたからほかの用意はない。ストーブはもちろん、コタツもないのである。室内の温度は七度まで下がり、修理がくるまでチョッキやジャンバーを着こんでふるえているほかなかった。ちょっとした狂いで簡単に原始生活へ舞いもどってしまったわけで、文明社会が持っているもろさをあらためて思い知らされた。
 それで思い出すのが韓国の地下鉄火災だ。普及密度が濃く、より深くもぐっているわが国で同じような事故が起こったらどんな惨事になるか。関係者があわをくって設備点検をしたり構内巡視を強化したりしはじめたところに受けた衝撃の大きさがうかがえる。
 ただそれでひとつ気になることがある。対策として設備の拡充や強化にあまりにも焦点が当てられすぎている気がしないでもないことだ。もっと重要で基本的なこと、つまり関係者への教育の必要性についての声がそれほど大きくないのはどうしたことか。不時の場合にいちばん大事なことは、どんな状況に陥っても適切な対策がとれるとっさの判断力や決断力をふだんから養成しておくことである。それは繰りかえし訓練をしてからだにおぼえこませる以外になく、毎日の積みかさねがなによりも肝要だ。事故を起こすのも人間なら、防ぐのも人間、状況を決定的に左右するのが人間のでき、ふでき、早くいえば責任感のあるなしなのである。
 防災問題が論議されるたび、より金を使わせる方向へ方向へと話が運ばれていってしまうのは、問題のすり替えではないかという気がしてならない。その声が大きくなればなるほどうさんくさくなってしまうのだ。そしていざ起こってみると、不可抗力だったの、あれほどの規模は想定していなかっただの、通りいっぺんの弁明だけでだれも責任を取らないシステムがいまの日本にはできあがっている。だめなのは設備ではない。人間なのである。
(2003年3月1日掲載)

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 思うところあって、ことしは旧暦のカレンダーで生活してみることにした。さいわい十二枚ものの壁掛けカレンダーが売られていたから買ってきた。日にちと月齢とが大きく書いてあり、西暦の日と曜日は隅っこに小さく掲示してある。つまり太陽暦のほうが従になったカレンダーである。
 なぜこんなことを思いついたかというと、旧暦によって成り立っていた生活行事の意味が、いまやほとんど忘れられてしまったからだ。お盆が一か月遅れで残っているほかはすべて太陽暦に移し換えられてしまった。その結果季節感が失われてしまい、いまではそれを疑問にすら思わなくなっている。
 たとえば一月七日は春の七草である。例によってテレビで七草粥のセットが紹介されていたが、これなど旧暦の行事だから太陽暦の一月七日にやろうというのがどだいむりな話なのだ。旧暦ではまだ十二月五日にすぎないのである。七草に入っている野草の多くはかげもかたちもない時期なのだ。
 旧暦の一月七日ということであれば、ことしの太陽暦では二月七日がそれにあたる。この時期になると、早春の野に野草も芽を出しはじめる。だからこそそれを粥にして祝うことに、春を迎える喜びや意義があったのだ。ハウスで栽培した野草をむりやり一月七日に食うことぐらいばかばかしいものはないのである。
 万事がこの調子だ。自然や、農作業や、日常の生活に根ざしていた旧暦の行事を、そのまま太陽暦に当てはめてしまっては季節も合わないし、意義も理解することはできない。それでなくとも農産物から季節が失われ、旬だとか走りだとかいうことばが死語になりかけている。一年中なんでも食べられる不幸を、そろそろ感じとってもいい時期にきているのではないか。
 本来わたしたちはもっと鋭敏な季節感を持っていたはずなのだ。自然の一員として生きる喜びを知っていた。旧暦を活用することで、その感覚をすこしでも取りもどせるかもしれないと思ったのだ。この冬、トマトやキュウリを食べていないのもそのせいである。
(2003年2月2日掲載)


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 レジに行列ができていた。ふたりまえに品のいい老婦人がいたのだが、そこで進行がストップしていた。彼女は買った野菜を店員がポリ袋に入れてくれたのが気にいらないらしく、紙袋を要求した。そしてもらった紙袋に買い物を入れてから、財布を取り出した。それからさらに時間がかかりはじめた。千二百六十三円という金額の端数を取り出そうとして、なかなか出てこないのだ。ついにバラ銭をレジのカウンターに並べはじめた。
 たまりかねて「つぎの人を先にすませたら」と店員にいった。しかしそこはデパートのせいか、「もう少しお待ちください」と内心はともかくひたすら待っている。結局小銭はないとわかり、二千円出してお釣りをもらって帰っていった。その間行列はさらに長くなっていた。
 その前日も惣菜売り場で同じような経験をした。唐揚げを買っていた老人が、積み上げてある唐揚げの中から、それじゃないこっち、といちいち指図していた。それがガラスのショーケース越しだから、店員がなかなか探し当てられない。いらいらして怒声になりかけていた。見ていてわかった。骨のないものばかり選んでいたのだ。
 最近しょっちゅうこういう老人の姿をみかけるようになった。それだけ老人が多くなったということかもしれないが、目にする機会は確実にふえている。これらの老人に共通していることは、周囲に対する配慮というものがかけらほどもないことである。あるのは自分の要求ばかり。自分が周囲の人とつながっているという認識がまったく欠けている。
 老いの鈍さとか鈍感というものは、ある程度避けられないとは思うが、かつてはできていたはずの自己チェックが蒸発するみたいになくなってしまうのはいったいどこに原因があるのだろうか。こういう人でもべつのところでは良識ある行動ができ、人から尊敬される立場にあるかもしれないのだ。つまり時と場所さえちがえば、そのままあすの自分の姿かもしれないのである。
 老いは哀しい。自戒をこめて、今週わたしは六十六歳になる。
(2002年12月21日掲載)


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 札幌で四度目の冬を迎えようとしている。暮らしやすさとほどよい距離感、地方都市ならではの環境が気に入っている半面、どうにもならないもどかしさというか、泣きどころにも当面している。それは活字メディアの情報がきわめて貧しいことである。とくにわたしのような人間には、本の絶対数の少ないことがいちばんの不満の種になっている。札幌ほどの街だから書店の数はそこそこあるのだが、品ぞろえとなるとひどく見劣りがするのである。
 本を買うだけならいまの日本はどこにいようが地理的ハンディはない。インターネットを利用すればほんの数日で希望する本を手に入れることができる。しかしそれは意思決定を行なったあとの購入手段の問題であって、そのまえの段階、つまりどういう本があるか、そのジャンルの本を何冊も比べてみて選ぶという行為はふくまれていない。大きな書店に行って何十冊もの本をひとつ視野におさめ、いちいち手にとって自分の望んでいるものにいちばん近いものを選ぶ、ということはまず望めないのである。
 似たことは地下鉄に乗ったときにも痛感する。中吊り広告がまるでちがうのだ。札幌の地下鉄には広告はあっても情報はない。首都圏のサラリーマンは毎朝殺人的なラッシュに耐えながら通勤しているわけだが、中吊り広告で束の間の慰みを見出していると同時に膨大な情報もそこから得ている。新聞やテレビを見ていなくても、中吊りだけで世の中の大まかな動きはわかるのだ。地方にはそのような通勤苦がない代わり、そういう情報を目にする機会もないのである。
 電車の中吊りで得られる情報などたいしたものではないといえばそれまでだが、たくさんあるものから取捨選択して必要ないと言いきるのと、はじめからそういうものが存在しないのとでは同じゼロでも明らかに質がちがう。なまじ東京暮らしが長かっただけに、この格差にはいまでもある種の飢餓感みたいに悩まされている。東京など必要ないと言いきれる潔さがいつ自分におとずれるか、このごろしきりに思うのである。
(2002年11月23日掲載)



 秋が深まってくると家にじっとしていられなくなる。自然が呼びかけてくるからだ。といってもわたしの関心はもっぱら実りの秋にしかない。子どものころから山の木の実はなんでも食ってきた。ところがクルミ、トチ、ブナの実には縁がなかった。それらの木が周辺になかったからである。
 成人してのちも、ただひとつブナの実だけは知らなかった。あいにくブナは四、五年に一回くらいしか実をつけないからである。いったいどんな味がするか、一度食ってみたいというのが長年の夢だった。ところが先週、紅葉見物に行ったついでにとうとうその望みがかなった。
 ブナの北限は後志の黒松内町だが、今回行ったのはその隣の島牧村である。ここに広大なブナの原生林があることは知っていた。しかしヒグマの多いところなのでなかなか行けなかった。紅葉シーズンならすこしは人も来ているだろうから、というので出かけたのだがはじめのうちはびくびくしていた。
 しかしブナ林に足を踏み入れるやいなや思わず目を見はった。これまで幻でしかなかったブナの実が、そこらじゅうばら撒いたみたいに落ちていたのである。ことしがそのなり年だったのだ。もううれしくてうれしくて、クマのことなんかすっかり忘れて拾い集めた。
 ブナの実はシイの実よりも小さくて、形はソバの実に似ている。細長い三角錐を想像してもらうといいが、事実三枚の皮が貼り合わさってできており、クリやシイの仲間でありながら割合簡単に皮がはがせる。なかには白い実があって、これがそのまま食べられる。味はシイの実よりもさらに淡白である。
 まだ予定があったので途中で切り上げなければならなかったが、それでもビニール袋が丸くなるくらい集まった。帰って計ってみると計量カップで三杯あった。皮を取り、フライパンで煎って食うと、微妙な味である。もちろんそんなにうまいというものではないが、ほのかな郷愁というか、縄文人にでも本卦がえりしたような気分がして、ひとりでに笑みがこぼれてくる。できたらもう一回採りに行ってきたい。
(2002年10月26日掲載)




 留守にしている東京の自宅へ帰ってくるたび、うんざりする用がひとつ待っている。家の裏が線路の土手になっているのだが、そこに繁茂しているクズがすさまじい勢いで押し寄せてくるから、それを撃退しなければならないのである。
 境界線に立ててあるフェンスもものかは、情け容赦もなく庭に入りこんでくる。今回は四十日ばかり間が空いていたせいもあって、フェンスが緑の壁みたいになって向こう側がまったく見えなくなっていた。そして庭に侵入してきた何本かの蔓は家の壁をまさに這い登ろうとして鎌首を持ち上げているところだった。
 クズという植物はそれほどきらいではない。葛湯や葛餅は大好きだし、赤紫の花は素朴で可憐でさえある。ツタを家の壁に這わせたり日除け用の棚に這わせたりすると、真夏でもクーラーがいらないくらい家のなかの気温が下がるそうだから、いっそクズも這わせてしまったらどうかと思わないでもない。ところがこのクズ、まことに生命力が強く、地を這ってはそこにいちいち根を下ろしてゆくくらいだから、家の壁などすぐさま食い破ってしまいそうで実験してみるのも恐ろしい。まさに日本最強の植物ではないかと思うのだ。
 気がつくと敷地の境界線にかつて生えていたほかの植物まで姿を消していた。以前はクズが押し寄せてくるのを直前で防いでいたから、まだしもほかの植物が自生できたのだ。その歯止めがなくなったものだから、いまや完全にクズに駆逐されてしまったのである。
 このクズ、北海道にも分布しているというが、札幌ではまだ見かけたことがない。豊平川の河川敷にも生えていないのである。代わって、東京のわが家周辺では姿を消してしまったセイタカアワダチソウや、ヒメジョオン、オオハンゴンソウといった帰化植物がなんとか居所を見つけたという体で咲きそろっている。先日空知の旧炭鉱地帯を歩いてきたが、元炭住街だった山の斜面に、これらの花がまるで黄色いお花畑みたいに咲いていた。駆逐するものされるもの、植物の世界も人間世界以上に生存競争がきびしいようである。
(2002年9月28日掲載




 夏が終わった。というとまだ残暑のきびしい本州の人から文句が出そうだが、札幌にかぎっていえばもう夏は終わったといってさしつかえない。
 大通り公園の夏の風物詩になっている納涼ビヤホールも、八月十一日で店じまいした。ことしのビール消費量はこれまでの最低記録を更新、というさびしい数字を残してである。そのはず、八月にはいって連日ぐずつき、日照時間は平年の六割、梅雨寒みたいな気温のあがらない日がつづいたのだ。
 終わってみると、真夏日を記録した日はわずか二日しかなかった。昨年は冷夏というわけでもなかったがゼロ。ところがはじめて北海道へやってきた一昨年の夏は、八月だけで真夏日が十四日もあった。三十五度をこえた日が二日。クーラーのない家に住んでいるからこれには悲鳴をあげた。締切りがせまってきたときはホテルに避難して仕事をしたくらいである。
 わずか三回の夏しか経験していないのに年ごとの差がこれくらいある。異常気象とか天候不順とか簡単にいってしまいたくないのだが、地元の人と話してもこんなお天気ははじめて、と異口同音にいう。そしたら今度はヨーロッパで百年に一度の大洪水ときた。
 百年単位の長い目でみたら、これくらいの現象など正常値のうちに入るという声もあるようだが、ひと夏に熱帯夜が四十日も五十日もつづくのはやはり異常だ。気温の上昇が海の水位を上昇させているという話は残念ながらそれほど実感がない。しかし大地の乾燥化がすすんでいるのではないか、という疑問ならときどき思いあたる。
 今月ウトナイ湖へバードウオッチングに行ってきたのだが、野鳥よりも湖岸の乾燥化が急ピッチにすすんでいるような気がしてあまり楽しめなかった。原生花園で有名なサロベツ原野も笹がものすごい勢いで繁殖しており、花は年々少なくなるばかりである。
 街路樹のナナカマドが赤く色づき、藻岩山ではむらさき色のススキの穂が出そろってきた。いつもの秋景色だと思う一方で、そういうことにまで疑いをはさみたくなるのがなんとも腹立たしい。
(2002年8月24日掲載)




 用があって二か月ぶりに東京の自宅へもどってきた。前回退治した雑草がもう勢いをとりもどしている。いくらかしのぎやすくなる夜を待って草むしりをした。すると月が出てきた。それにしても東京の月の、色がうすくて存在感の希薄なこと。先週北海道で強烈な星空を見たばかりだからよけいそう思った。
 編集者がふたり訪ねてきたから打ち合わせと称して山の温泉に案内し、一夜泊まってきた。標高千二百メートル。北海道でもいちばん高いところにある一軒宿である。
 夜の十二時すぎまでしゃべり、寝るまえにもう一回露天風呂へ入りに行った。すると満天に星が出ていた。夕方は曇っていたのである。銀河がなだれ落ちて頭上を横切っている。びっくりして早々に飛び出し、旅館の前に出て三十分ばかり空を見上げていた。
 本来なら邪魔になる富良野や旭川の明かりがまったくなかった。雲が降りてきてすべてその下に隠してしまったのだ。つまり雲海の上に突き出た状態で星空が見られたことになる。つくりだそうとしてつくりだせる条件ではない。千か万にひとつの幸運、としか思えない雄大な星空だった。
 編集者のひとりは五十代で東京生まれの東京育ち、こんな星空ははじめて見ましたという。かくいうわたしだって子どものころ以来、かれこれ五十年ぶりではなかったろうか。
 東京へもどってくるとき、羽田が混んでいて航空機が十五分ほど空で待たされた。飛行機はその間高度を下げながら夜の霞ヶ浦上空を旋回していた。高度三、四千メートルくらいまで下がっていたと思うが、晴れていたので地上のようすがよく見えた。
 見慣れた光景だとはいえ、なんともすさまじい光の洪水だった。霞ヶ浦近辺だからそれほど大きな都市はないところなのだが、それでもありとあらゆる光がちりばめられて息を呑まんばかりである。どこにも光のないところを探すほうがむずかしい。これでは星空の出番などないというものだ。わたしたちは地上の光をつくりだした代償として、天上の光を失ったのである。
(2002年7月27日掲載)




 北海道の山を歩いていて、いつも残念に思うことは栗の木がほとんどないことである。かつてはいたるところに原生林があり、熊やリスのまたとない食料になっていたが、開拓期に切りつくされてしまったのだ。さらにクリタマバチの被害が追いうちをかけ、いまでは幼木さえめったに見かけなくなった。
 ところが先日、イカめしで有名な森町に、当時の栗林がまだ残っているという話を聞いた。半信半疑、そちらへ行く機会があったので足をのばして訪ねてみた。もう三十年近くまえのことになるが、北海道を旅行中、待合室に展示してあった巨大な栗の切り株に目を見張ったことがある。それがほかならぬ森駅だったのである。
 おどろいたことに、町の真ん中にある公園に、樹齢三百年にはなろうかという木を筆頭に、百数十本もの巨木がこともなげに残っていた。説明によると、このあたりの海岸線は、かつて栗の密林でおおわれていたとか。それを港の桟橋用に、鉄道線路の枕木用に、ことごとく切り出してしまったという。たまたまこの公園の木は、そのとき馬をつなぐのに必要だったため、伐採されなかったものである。
 三内丸山遺跡をはじめ、縄文時代の遺跡から巨大な栗の柱が出土しているように、堅くて水に強い栗の木は、建設資材として最適であることが早くから知られていた。東北地方の山の中で、廃屋となっている農家が、屋根は抜けかけているのに骨格はびくともしていないのを実際に見たことがある。その家の土台や柱、濡れ縁などにすべて栗の木が使われていた。
 なまじ有用なだけに、時期がくれば切られてしまうわけで、栗で巨木になるものは少ない。林単位で残っているものとなると、長野県にあるしだれ栗の自生地くらいなものではないかと思う。
 だからこそ、いまでも秋には実をつけているという森町のこれら巨木群は、よくぞ残ったものだと感心する。大きな木の下にいるとそれだけで心がやわらいでくる。栗の木と、これを守ってきた町の人の心遣いに感謝して、満ちたりたひとときをすごしてきた。
(2002年6月29日掲載)




 三週間ばかり留守にして、先週札幌へ帰ってきた。出かけたときは街のすぐ南にある藻岩山に雪が残っており、創成川の柳も芽が出そろったばかりで、花にいたってはコブシがようやく咲くところだった。
 それが帰ってみると、豊平川の河川敷は緑一色になっているし、土手や空き地はタンポポの花だらけ、大通り公園ではライラックが咲いていた。桜はさすがに終わっていたものの、八重桜は盛りだったし、桃や紅梅も咲き残っていて、まさに春たけなわだった。
 それにしても北海道の春は、いろんな花がいっせいに咲くから、本州の季節感にとらわれていると頭が混乱する。
 スイセンとチューリップ、ユキヤナギとシバザクラ、どう見ても季節のちがう花が並んで咲いているし、本州では早春の花となっているレンギョウが、ツツジやボケやハナカイドウと一緒に咲いている。もっともレンギョウのほうは、葉っぱと花が半々になっているから、はじめて見たときはちがう花かと思った。
 街路樹の新芽もずいぶん濃くなってきたが、こちらは木によってかなり差がある。プラタナスの葉はまだあかんぼうの手くらいの大きさだし、イチョウの葉もせいぜい十円硬貨ぐらいの大きさしかない。一方でナナカマドはもう青々と葉を茂らせ、白い花まで咲かせている。
 さらにあと数週間もすると、ポプラの綿毛が漂いはじめるのを見ることができる。小さな種をつつみこんだ綿毛が、どこからともなく現れて、空をふわふわ漂っている光景は一度見たら忘れられない。
 それにつづいて、ニセアカシアの花が飛びはじめる。こちらはチョウチョウの形をした小さな花で、花弁が厚いからふわふわとはいかなくてさーっと降ってくる。風でも吹くと、花吹雪というより夕立みたいに豪快に降りそそいでくる。道路のふちに降り積もった白い花を、靴の先で蹴散らしながら散歩できるところなど、ほかにはないだろう。札幌を代表する街路樹がニセアカシアなのである。
(2002年5月25日掲載)



 病院嫌い

 札幌に住まいを移して三年になる。東京を逃げだした理由はいくつかあるが、そのひとつがスギ花粉症だった。五、六年まえからはじまり、年々ひどくなるので、こうなったらいっそスギのない北海道へ逃げてしまおうか、と思ったのがはじまりだ。
 北海道にいるかぎり、その心配はしなくてすむようになった。しかし二月から五月まで、まったく本州に近寄らないですごすというのもむずかしい。ことしも三月から二回、用があって東京に出かけた。
 この間にも体質改善をはかろうと思い、一月のはじめごろから、花粉症に効くという甜茶を一日一リットルほど飲みつづけていた。その効果のほどを期待していたのだが、これがまったく効かなかった。なんともなかったのは一日だけ。翌日からくしゃみ、鼻水がはじまり、滞在ちゅうずっとつづいた。困るのは北海道へ帰ってきても、すぐもとには戻らないことである。しかも治りきらないうちに、また出かけなければならなくなった。
 二回目のときはわたしの花粉症を知っているある人が、鼻炎に卓効があるという竹酢液をくれ、これをうすめて鼻を洗滌してみろとすすめてくれた。さっそくやってみたが、これも効果があったようには思えなかった。おまけに今回は風邪までもらってきてしまい、そちらのほうが重くなって、先週とうとう病院へ行く羽目になった。
 東京で花粉症に苦しむたび、今度こそ札幌へ帰ったら絶対病院へ行き、きちんとした治療を受けようといつも思うのだ。ところが戻ってきてのど元をすぎてみると、なかなか行く気になれない。
 風邪で病院に行ってよくわかった。五分の診察と薬をもらうだけで半日もかかったのだ。薬をもらうのに、微熱のあるからだで四十五分も待たされたときはつらかった。花粉症の治療には長い時間がかかるという。治療そのものに半年や一年かかるのは我慢する。しかし一回の治療を受けるたび、半日も時間がつぶれてしまうのを考えると、我慢できるかどうか自信がなくなってしまうのである。
(2002年4月20日掲載)


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